民族やネイションに絡む言葉の交通整理

塩川(2008)は、「エスニシティ」「民族」「国民」「ネイション」「ナショナリズム」といった言葉が、明確な定義なしに使われて多くの混乱をもたらしていると指摘する。ただし、これらの言葉は非常に異なった事柄でありながら、なにがしか共通性や関連性を持っているともいう。さまざまなズレを含みつつ部分的に重なり合うという意味でのゆるやかな共通性である。このことを踏まえ、それらの言葉の意味について、ある種の「交通整理」をしておくことが必要だと塩川はいう。


塩川によれば、「エスニシティ」という言葉は、とりあえず国家・政治との関わりを括弧に入れ、血縁ないし先祖・言語・宗教・生活習慣・文化などに関して、「われわれは○○を共有する仲間だ」という意識が広まっている集団を指す。客観的な共有よりも、当事者がそのように意識しているということのほうが重要だという。そして、こうしたエスニシティを基盤とし、その「われわれ」が1つの国ないしそれに準じる政治的単位を持つべきだという意識が広まったとき、その集団のことを「民族」と呼ぶことにすると塩川はいう。


一方、「国民」は、国家の正統な構成員の総体と定義され、近代社会における国民主権論と民主主義観念の広まりを前提とすれば、国民とはその国の政治の基礎的な担い手ということだという。国民主権の発想が広がっていない時期には、国民という観念自体も存在しない。「国民」は必ずしもエスニックな同質性を持つとは限らない。しかし、国民と民族の間に重なり合いも生じうるとする。民族が国家を獲得する場合(民族の国民化)や、国家が文化的均質化の政策を推進し、国民が民族的共通性を持つ場合(国民の民族化)がある。


「ネイション」については、その使い方は国と時代によって異なり、英語の「ネイション/ナショナリティ」やフランスの「ナシオン/ナシナリテ」は、エスニックなニュアンスがあまりなく、「国民」の意味合いに近いが、ドイツやロシアでは、エスニックな意味合いが色濃く付着しており、「民族」の意味合いに近い。例えば、アメリカ合衆国では、「多数のエスニシティが、その複数性を超えて単一のアメリカン・ネイションに統合する」という発想が優越的であるという。


ナショナリズム」とは、政治的単位(端的には国家)とナショナルな単位とを一致させようとする考え方および運動だというのが1つの明快な定義だと塩川はいう。ただし、この定義は、ネイションが文化的ないしエスニックな側面から捉えられているとも指摘する。また、ナショナリズムの分類として、非エスニックな国民観を反映した「シヴィックナショナリズム」と、「エスニック・ナショナリズム」との対比も挙げている。


さらに塩川は、「愛国主義パトリオティズム)」と「ナショナリズム」の違いにも言及している。1つの使い分けは、忠誠ないし愛着の対象の違いで、パトリオティズムが「愛郷心」と訳されるような狭い範囲への愛着を示すのに対し、ナショナリズムがより広い国家への忠誠を指す場合、逆に、多民族国家においてはその国全体への忠誠心がパトリオティズムで、その中の1つの民族への忠誠心がナショナリズムだという場合もある。コミットの仕方の違いに注目するという使い分けもあり、例えば、単純素朴な愛着心や仲間意識を「愛国心」、より自覚的なイデオロギーを「ナショナリズム」としたり、過度にのめりこむ排他的で偏狭な態度を「ナショナリズム」、より開かれた意識を「愛国主義愛国心)」とするという区別などがあるという。