心とはいったい何か

「心」とはいったい何かについて根源的に考えようとするのが、心の哲学である。例えば、将来、ロボットに心が宿るのか。これに対する何らかの答えを得ることは、そもそも心とは何かについて根源的に考えることなしには可能ではない。この点について、金杉(2007)は、入門書的な著作において、心とは何かについてどのように考えればよいかの基本的なアプローチすなわち論点を紹介している。


金杉による第一の論点は「心の因果性」である。これに絡む問いは、心は物質的な存在なのか、非物質的な存在なのかという点で、前者が物的一元論、後者が心身二元論である。何らかの物理的刺激(原因)に反応して、特定の人間行動(結果)が生じる場合に、そこには心が因果関係的に介在していると考えられる。つまり、刺激→心1(例:欲求)→心2(例:期待)→行動というような因果関係図式である。しかし、金杉によれば、二元論ではこの説明がうまくいかない。なぜならば、物理的刺激→脳状態1→脳状態2→行動という物理的世界のみの因果関係の説明に、非物理的世界としての心を位置づけるのが難しいからである。一方、一元論であれば、特定の脳状態と心を同一視する(心脳同一説)、脳による機能と心を同一視する(機能主義)で物理的刺激から行動までの因果関係を論理的に説明できる。よって、心の因果性を考える限りにおいては、心身一元論に軍配が上がると金杉は解説する。


第二の論点は「心と意識」である。金杉は、意識という心の基本的特徴を考える際には、物的一元論には大きな課題が残されているという。例えば、意識に現れる質的特徴としての「クオリア」については、他者の状態を観察することが不可能である。そこで、自分には「赤」に見えているものが、他者には生まれつきまったく違う色に見えているという可能性、例えば白と黒が自分と相手とで入れ替わっている可能性(クオリアの逆転)を論理的に排除できない。これは心脳同一説や機能主義などの物的一元論とは矛盾する。何故ならば、物的一元論が正しければ、同じ脳状態あるいは同じ機能を脳が果たしている時には、クオリアも同じであるはずだからである。


第三の論点は「心の志向性」である。志向性とは、あるものが何かを表していたり志向していたりするという特徴で、志向性を持つものは「表象」、表象の対象は「表象内容」または「志向内容」と呼ばれる。志向性を持つ心の内容には、信念、欲求、感情、知覚が含まれる。すべての心の状態は志向性を持つのかどうかについては意見が分かれるが、志向性を持つ心の状態においては、心はどのようにして何かを表象するのかという問いがある。これについて多くの論者は命題的態度すなわち「〜ということ」で表現される特定の心の状態は構文論的構造を持つ言語的表象であると考えているという。そうすると、もし命題的態度が脳状態に他ならないのであれば、脳状態もその内在的特徴として構文的構造を持たなければならない。脳状態に構文的構造が認められれば物的一元論を大きく支持することになるのだが、それは神経心理学の成果により否定されてしまったと金杉はいう。また、なぜ心に志向性があるのかについて、因果的説明(表象の対象が表象の原因である)と目的論的説明(表象が進化論的目的に沿っている)があるが、どちらも十分な説明だとは結論できないという。


第四の論点は「心の合理性」である。これは、欲求や信念といった命題的態度が他の命題的態度や行為を理に適ったものとして説明できる関係性を指す。合理的説明は、命題的態度や行為を、ある理由に基づくものとして理解する営みである。金杉によると、機能主義が正しければ、命題的態度や行為の間の合理的関係は、それらの間の因果関係に支えられて初めて成立する。つまり、ある命題的態度が原因となって、他の命題的態度が生じ、それが原因となって行為が発生するという具合である。そして、機能主義の下では、個々の命題的態度は個々の脳状態によって実現される。しかし、上記で記したように、脳状態には命題的態度に対応する構文的構造を見出すことができないことが明らかになったため、個々の命題的態度が個々の脳状態によって実現し、それが因果関係で結ばれているという説は成り立たない。よって、この点に関しては物的一元論の有力な立場であると考えられてきた機能主義が否定されることになるという。また、消去主義は、そもそも命題的態度が常識心理学の「理論的存在者」にすぎず、常識心理学はいずれ誤った理論として否定されるため、命題的態度そのものの存在も否定されると説く。金杉は、この考え方はわれわれの常識に反しすぎているという。


上記の点において金杉は、因果性から自律したものとしての合理性によって命題的態度を解釈する「解釈主義」の立場をとれば、命題的態度の実在性は担保されると説く。つまり、ある人の行為や命題的態度を合理的なものとして解釈することは、それらの間に因果関係があることとは無関係だと考えるのである。しかし、ときどき生じる命題的態度や行為との不合理な関係をどのように説明するかに解釈主義の課題があり、局所的な不合理性を各部分が支えつつ、全体として合理性が維持されることを求めるようなものとして合理性を捉えるべきだと金杉は論じる。


第五の論点は「心の認識」であり、自分や他人がどのような心の状態にあるかを認識するという心の基本的特徴である。ここでのポイントとなる他我問題では、他人の心をその人の行動から類推して知ることができる(類推説)という考えに関して、物質的な体と非物質的な心を想定する心身二元論では「自分に成立している心と行動との間にある相関関係は、どの人にも成立している」とは言えないので、類推説が成り立たなくなると金杉は解説する。一方、心と行動との結びつきを本質的なものとする行動主義では、心の状態を、ある条件が成立すれば特定の行動が生じるという「行動への傾向性」として理解する。この原理に従えば、我々は他者の心の状態を類推できるという意味で他我問題が生じないが、行動主義では個々の心の状態を単独で行動と結び付けるという問題点があると指摘する。むしろ、実際には、複数の心の状態が全体として行動に結びついていると思われる。その面においては、解釈主義のほうが、心の全体論的性格をうまく汲み取った全体的行動主義として理解することが可能なのだと金杉は主張するのである。


自分の心を知る「自己知」については、金杉は、かなりの程度「不荷謬性(自分の心が特定の状態にあると信じているときは、心はその状態にある)」「自己告知性(自分の心が特定の状態にあるときは、心がその状態にあると信じている)」の両方が成立すると論じる。さらに「直接性(自分の心がその状態にあるという信念は、行動の知覚や類推を介さずとも直接的に形成される)」も成り立つという。さらに、これらの自己知のプロセスは負荷謬性と自己告知性の両方が成立する「内観」という知覚によるものだという知覚モデルを紹介するのだが、この知覚モデルの説明も満足のいくようなものではないと指摘する。結論として金杉は、「心とは何か」については、我々は現状では決定的な答えを出すことはできないという見解を示している。