中国とは何か、中国人とは何か、中国語とは何か

岡田(2004)によれば、中国という言葉が現在のように国全体の呼称として使われだしたのは、19世紀末から20世紀初めの頃である。それ以前、例えば清の時代には、皇帝が君臨する範囲を呼ぶ呼称がなかったという。では、どのようないきさつで自分の国を中国と呼ぶようになったのだろうか。


もともと中国と呼べるような場所というのは、夏・殷・周の昔から都のあった陝西省河南省山東省に限られていたと岡田はいう。それに対して、1616年に後金国を建てた満洲人が自壊した明の後に北京に入って統治を始めたことで満洲と中国が統合され、中国を意味する満州語が、外を意味する外藩と区別される意味で使われた。そして、秦の始皇帝の頃から外国人が使っていた「秦」の外国語読みが「チャイナ(China)」となり、それがポルトガル経由で日本に伝わって「支那」となった。それを知った清国が、自国を「支那」、自国人を「支那人」と呼ぶようになったが、発音に由来するこの言葉自体には意味はないので、代わりに「中国」を使うようになったのだと岡田は解説する。


ただし、岡田によれば、「中国」のもともとの意味は、「国の中」である。最初の意味としては、「国(國)」とは城壁をめぐらせた「都」を指すものであったから、都の中ということになる。しかし、国(國)はそのうち指し示す範囲が広がって、日本語の「くに」にあたる「邦」と同じ意味になったが、漢の高祖となった劉邦に失礼だということで邦よりも国が使われるようになったという背景もあるという。


このような経緯から、「中国人」とは、元来は「都市の民」「商売の民」を表す言葉なのだと岡田は示唆する。中国の城郭都市は市場・商業都市であったのであり、中国文明は商業文系であり都市文明だといえるからである。このことから、「中国人」というのは1つの民族を指し示す言葉ではないことが分かる。中国人という人種もなかったのである。


始皇帝が秦を建てる以前は、東夷、西戎、南蛮、北狄の諸国、諸王朝が洛陽盆地をめぐって興亡を繰り返したが、これらの諸種族が接触・混合して形成した都市の住民が中国人であり、人種としては、蛮、夷、戎、狄の子孫だと岡田はいう。つまり、中国人というのは文化上の概念なのである。


城壁で囲まれた中国の都市は、その城壁によって外側の「蛮、夷、戎、狄」の世界から区別されていた。そして、いかなる種族の出身者であれ、城壁の中の都市に住みついて、市民の戸籍に名を登録し、市民の義務である夫役と兵役に服し、市民の職種に応じて規定されている服装をするようになれば、その人は中国人「華夏」の人だったというわけである。そして首都および地方都市では、市場が都市の原型となり、皇帝を頂点とする大商業組織となっていったのである。そのような背景のもと、各地で使われた商人言葉が中国語の原型である。


岡田によれば、中国語と普通呼ばれているものは多くの言語の集合体であって、その上に漢字の使用が蔽いかぶさっているにすぎない。漢字の原型らしいものは華中の長江地域で発生し、この方面から河川をさかのぼってきたらしい夏人が漢字の原型を華北にもたらした。それらは、実際に人々が話す日常言語の構造とは関係なく、ある簡単な原則にしたがって排列するようになった。漢字が表意文字であることから、このような使用法が言葉を異にする人々の間の通信手段として使えるようになり。文字通信専用の人工的な言語となっていった。つまり、中国語は、市場で取引にもちいられていた片言を基礎とし、それを書き表す不完全な文字体系が二次的に生み出したものなのだと岡田は指摘する。