科学の射程と限界

小林(2009)は、近現代の科学の成立の事情やその条件・本性を踏まえることによって、近現代の科学の射程と限界を検討している。小林は、近現代の科学は、ガリレイデカルトらによって、われわれの日常の知覚経験に基づいて理論を構築するアリストテレス自然学を、その存在論や認識論や学問論において解体するという「科学革命」によって成立し、発展したという。


この科学革命とは、われわれの知覚によって経験される現象は自然の実在の構造を示すものではなく、自然の実在の構築は抽象的な数学によって知られるとした点に特徴付けられる。ここでの数学の役割は、単なる事物の抽象化でなく、自然現象の本質的構造を明らかにするものである。しかも、数学的論証により、経験上からは観察されなかったことまで論証できると考えられた。そして、物理的自然全体を、少数の自然法則と力学的原因によってのみ解明しようとする力学的(機械論的)自然観が設定された。この自然観では、物理的世界の基本的存在は、数や幾何学的図形を基本的性質とする物体であり、物体の幾何学的に記述可能な「位置変化」のみを対象とするのである。


このため、近現代科学の本質は、私たちの日常の知覚に与えられる生の現象全体ではなく、位置変化という、そこから切り離された一面となったのである。近現代の科学でいう事実とは「数量化された事実」であって、知覚の生の事実ではない。ここでは、物理現象から観測装置を介して抽出された数量が、時間的・空間的に関連付けられることによって、方程式ないしは経験法則として理解される。科学は、私たちの知覚経験に依存しない、自然現象全体の普遍的構造を抽象的な数学によって解明しようとする方法論態度となったのである。


このように近現代科学では、科学的作業は知覚経験から乖離するかたちで、私たちの知覚現象に直接対応づけることのできない理論仮説に訴えて展開、発展してきた。科学は、誰にとっても再現可能な実験・検証の手続きで理論の妥当性を担保するが、それはもはや、人間の五感によってなされるものではなく、「実験装置」と「想定される対象」との間の「相互作用」の結果に従って行われる。そのため、マクロやミクロの物理現象においては、私たちが直接知覚することのできない現象において、時空が歪むとか、量子が確率的にしか存在しないとか、日常的な常識とは合致しないが、数学的には妥当である(よって自然現象の普遍的な構造を記述している)という結論が導かれてきたのである。


このような科学の特徴から得られる射程と限界の見解としては、科学は、自然現象のもっとも普遍的な構造の追及を抽象的数学によって得ようとする方法であるため、私たちが感覚的世界に面して直接的に経験することの多くの面を捨象するということがあげられる。つまり、対象を数量化することによって、対象の知覚的意味や価値的意味を捨象すること、そして世界の日常言語ではなく数学的言語が用いられるため、私たちの生活世界や環境世界に依存した特性やニュアンスが捨象されること、そして精密なる観測装置によって行われる再現可能な実験・検証では、私たちの一回きりの人生において一回だけ出会うような出来事は取り上げられないとうことなのである。