セレンディピティと偶然性と運命と

セレンディピティ(偶然の幸福に出会う能力)によって何かを発見したり、何かに巡り合ったりすることは、見かたを変えれば自分自身の行動に起因していることもあり、必然であり、運命であったといえなくはないか。これに関して、木田(2009)は、偶然性と運命の捉え方の1つとして、ハイデガーの時間論(人間存在の時間構造)に言及している。


木田によれば、ハイデガーは、人間存在の時間構造(根源的時間)を、人間がおのれを時間として繰り広げる働きであるとする。これを「おのれを時間化する作用」と呼ぶが、つまり人間は、もっぱら現在だけを生きる他の動物と違って、現在、未来、過去といった次元にまたがって生きているということである。人間は、おのれを時間として展開して生きることができるようになったということである。このことにより、単に現在与えられている生物的環境だけでなく、それを足場にして、かつて与えられたことのある環境構造や与えられるであろう環境構造を重ね合わせて構成された「世界」に適応するといった仕方で生きるという意味で「世界内存在」と呼ぶのである。わかりやすく言えば、人間は、現在を生きるとき、未来や過去をも共に生きているというのである。


この考え方を用いれば、例えば、ある人物との「運命的な出会い」「運命のめぐりあわせ」を深い情動をもって感じるということは、外的で偶然的なものとしか思えない現在のこの出会いが、これからもこの人と一緒にいたいという未来への企投につながり、そしてあたかも自分のこれまでの体験の内的展開の必然的到達点であるかのように過去の体験が整理しなおされ、再構造化され、意味を与えなおされることによって、この出会いが起こった現在が特権性を帯びて見えてくるというプロセスであると解釈できるのである。過ぎ去ったものとして忘却され、時折その忘却の中から思い出されるだけだった自分の過去の体験が、取り上げられ直され(反復され)、すべてがこの特権的瞬間を目指して進行してきたかのように意味を与えなおされ再構成化されることによって、この偶然の出会いが必然に転じ、運命に感じられるようになるということである。ヤスパースが言うところの「偶然が内面的に同化された」ということである。