「実存」と「構造」の思考モデルを使い分ける

三田(2011)は、「実存」と「構造」は20世紀を代表する2つの思想であり、コインの表と裏のような関係にあるという。人間は本来自由であり、自らの意志によって生きていけば無限の未来があるというのが実存という思考モデルの根幹で、人間はある限られた可能性の中でしか生きられないというのが構造という思考モデルのポイントである。人生には指針が必要である。実存と構造は、人生を生きる上でのナビゲーションであると同時に、人間の精神を支えて前進させる車の両輪のようなものだと言うのである。


元気よく前向きに生きようと思っているときは、実存という思考モデルが推進力になる。しかし、わたしたちには無限の自由があると考える実存主義の思考は、孤独な魂に宿る。その結果、実存という思考は人間を袋小路に追い込むことになる。自己というものをとことん見つめていけば、共同体から切り離された孤独な存在が見えてくる。共同体から遮断され、孤独感と不安にさいなまれることになる。


構造主義では、わたしたちは構造の中に生きていると考える。実存には無限の自由があるという思考モデルとは対極にある。社会の中には制度があり、道徳や規範がある。このようなさまざまな伝統には隠された構造があり、意味があり、機能があるのだという思考モデルなのである。これらは長い歴史の中で、その機能によって自然淘汰のふるいにかけられ、現在まで生き残ってきたわけだから、個人を束縛する因習のようなものでも、実は重要な意味を持っているということになる。


実存と構造の2つの思考を組み合わせると、実存としての個人にとっては困難な状況であり、やりきれない苦悩をかかえているようでも、神話や歴史の長大な体系中では何度も繰り返された「よくある話」にすぎないかもしれないということになる。実存思考を突き詰めることによって袋小路に追い込まれても、そこで悩んでいる自分自身を俯瞰して眺めるような大きな視野を持つことにより、少なくとも悩んでいるのは自分ひとりではないとうことに気づき、新たな局面への突破口となるかもしれないと三田はいう。


つまり、自分がかかえている問題を、神話的な繰り返しの構造の中に埋め込んでしまうことによって、袋小路から脱出し、前向きに生きることができる。自分は英雄でもなければ特別に悲惨な人間でもない。神々の時代から繰り返し人間は同じことを重ねてきたのだから、自分が抱えている問題は繰り返し構造の1つのバージョンにすぎない。そう考えれば、悩んでいるすべての人が自分の仲間となり、もはや実存は、孤独という地獄から救済されると三田は説く。