幾何学は「図」ではなく「論理」の学問である

リーバー(2011)は、現代数学のエッセンスをわかりやすく説明する中で、現代数学では幾何学も「図」ではなく「論理」の問題であることを示している。紀元前300年という昔にエウクレイデスによって整理されたユークリッド幾何学は、片手で数えられるほどの「自明の真理」のみを用いて、図形に関するあらゆる「定理」を導いた。それが長らく、幾何学の基礎として定着していた。幾何学は、図形の本質を捉えるための学問であった。


ユークリッド幾何学は、ごく少数の真理を論理的に展開することによって、この世の真理をつぎつぎと知ることができるという思考のお手本でもあった。ガリレオをして「自然の書物は数学の言葉によって書かれている」とさえ言わしめた。数学が物理学等によって活用されることによって、次から次へとこの世界の法則性を解明することに成功してきた。少なくとも自然現象において、数学は、真理を映し出す鏡とさえ思われたのである。


しかし、100年ほどまえから始まった現代数学によってもたらされた大きな「コペルニクス的転回」は、この「ごく少数の真理」までも疑うということであった。そうすることによって、真理を追究する学だと思われていた数学の本質が根本から変わってしまった。


一言で言えば、現代数学では、少数の「公理」は、単なる「前提」にすぎなくなってしまったのである。そして数学は、「ある前提を置き、そこから論理を使って、矛盾を生じさせることなしに別の事項を導く。それだけを問題とする。」「数学者の仕事は、論理的な思考で何ができるかを見つけることである。」ということになった。非ユークリッド幾何学がその例である。現代数学は、「基本的な前提は自由に選ぶことはできるけれど、それらがたがいに矛盾してはいけない」というルールに従って、あらゆる種類の思考体系を編み出すことが主たる目的となったのである。


ユークリッド幾何学において「ごく少数の真理」と思われていた公理(前提)は、人々が長きにわたってとらわれてきた「先入観」といってもよいだろう。この先入観を取り払ってしまい、人間の思考の武器でもある「論理性」を駆使すれば、そこには新たな地平が待ち構えていることを現代数学は示したのだともいえよう。それに伴い、現代の科学も、絶対的な真理を探究する学問ではなくなった。「客観的な事実(法則性)」を議論するのではなく、「変換のもとでの不変量」について議論するようになった。この世の真理など人間がわかるはずはないが、現代においては抽象化と論理に基づく人間の「考える力」が、世界をどんどん切り開いていくのである。