暴力装置を独占する国家

佐藤(2014)は、マルクス資本論を「人生を楽にするために」読み、資本論の内在的論理をつかむという目的の講座の中で、国家の本質は「暴力装置を有することによって社会から収奪する存在」だとする視点を紹介している。資本論では、労働者階級、資本家階級、地主階級という三大階級によって社会が成り立っているとするが、「国家」というのは、資本論においては社会の外側にあるものだと佐藤は指摘する。よって、社会を分析するというし本論の趣旨においては、国家のことを持ち出さなくてもすむのだという。だとすると、資本論において公務員の立ち位置が分からなくなる。


それに対して佐藤は、公務員は「社会に寄生する存在」だという。社会の外側にいて、国家の暴力を恃んで、社会から収奪しているのというのである。ここでいう「国家」は、社会から吸い上げることによって生きている存在として描写されている。佐藤によれば、国家は暴力を独占しているところに特徴がある。そして、国家を支える具体的な人間が必要である。それが官僚だといわけである。官僚は階級であり、この階級は税金で生きているという理解になる。


では、このような国家や官僚階級は存在しないほうがよいのか。そうでもない。国家がなくなって日本がフラットな社会だけになったとしたら、日本の周辺に国家があるから、その国家が自分達の暴力装置を持って現れると佐藤はいう。他の国家があるかぎり、われわれも国家を維持しないといけないという論理である。また、国家がなければ資本主義社会の発展もありえない。勝手にカネとモノを動かす人たちがいるだけでは社会が発展しない。彼らを規制し、市場の枠組みを作らないといけないという。ただし、国家には国家独自の論理があって、自由主義でも保護主義でもおのれの一番有利な道を選ぶ。戦争がいちばん有利ならば戦争もするというわけである。


つまり、国家は、社会の外側にあり、本質的において暴力的であり、本質的において官僚階級が恣意的に運営しているシステムだというのである。