分析哲学と言語論的転回

青山(2012)は、分析哲学の独自性として、言語の働きの解明を通じてさまざまな問題に答えるものであるとする。ここでいう「言語」には、人間が思考するための論理も含まれている。そもそも私たちは、何を論じる際にも言語に依存している。何を観察する際にも、言語を通して世界を見るからである。そこで重要な役割を果たしているのが「言語論的転回」わという逆転の発想である。


青山によれば、分析哲学では、言語を基礎的で自律的なものとみなし、言語の機構(メカニズム)の解明によって他の機構を説明しようとする。言語論的転回は、まず世界があってそれを言語が写し取るという直観ではなく、まず言語があってそこから世界がひらかれるという直観による逆転的発想に基づいている。言語によって世界が開かれるからこそ、言語の仕組みを見ることで世界の仕組みが分かるというわけである。


また、言語論的転回では、「私」の私秘的な(私だけが捉えるプライベートな)経験こそが世界認識の基礎となる(たとえば「私が時計を見ているからこそ、時計が存在する」)という「観念論」の手法を追い出してしまった。観念論では、世界を開くのは「私」であり、言語は、その「私」の道具として使用されるにすぎない。しかし、言語論的転回では、「言語が世界を開く」という見方に転回しているわけである。


分析哲学では、自由でも幸福でも死でも、あるいは映画でも聖書でも核兵器でも、なんでも分析することができる。ただ、そうした森羅万象についての分析は常に言語についての分析を経ており、とりわけ論理や文法や意味論に目を向けるとき、言語そのものが分析対象として意識されると青山はいう。分析哲学者があえて「言語を対象にする」と言うときには、論理や文法や意味論に目を向けており、「言語以外を対象にする」と言うときには、言語を対象にした際の知見を活かしつつ、森羅万象に目を向けているというわけである。つまり、ある意味で言語を分析しない分析哲学研究というのは想像がつかないと青山は言うのである。