中嶋(2001)は、哲学は、医学や法学のように技術としては何の役にも立たないという。しかし、哲学は、有用であること、社会に役立つこと以外の価値を教えてくれるという。そのような哲学とはいったい何なのか。役に立つとすれば何の役に立つのか。
中嶋によれば、哲学はすべてのことを徹底的に疑うことから出発する。哲学の問いとは、この世のありとあらゆることに対する「なぜ?」という単純な問いかけである。例えば、時間・因果律・魂・自由・意志・存在・善・美などが「何であるのか」。そのような問いかけは、普通の人が前提としている善悪の骨格を揺さぶる。世間の人々が議論しないところにメスを入れて、そこに詰まっている問題をえぐり出してみせる。そうしていると、人生の大事と思われているものは取るに足らぬように思え、逆に取るに足らぬと思われていることが輝いて見えてくると中嶋は指摘する。
哲学では、本当に重要な問題に立ち向かう。それは「私は生きておりまもなく死ぬ、そしてふたたび生き返ることはない」というこの一点をごまかずに凝視することだ中嶋はいう。このどうすることもできない残酷さを冷や汗の出るほど実感し、誰も逃れられないこの理不尽な徹底的な不幸を自覚する。ここに「死者の目」が獲得される。これは、宇宙論的な目であり、童話の目、子供の目にも近い。つまり、中嶋によれば、哲学は、「死」を宇宙論的な背景において見つめることによって、この小さな地球上のそのまた小さな人間社会のみみっちい価値観の外に出る道を教えてくれるのである。そしてそれは同時に本当の意味で私が自由になる道であり、自分自身に還る道だと中嶋はいうのである。
自分自身に還るあるいは「自分自身になる」とは、必ずしも世のため人のためになることや「よいこと」を含んでおらず、むしろ「よいこと・悪いこと」といった枠を超えたもっと根本的な意味があると中嶋はいう。それは、何かよいこと、価値あること、役に立つこと、ためになること等々を目指すのではなく、「生きること」そのものを目標にするという面がある。だが「生きること」そのことを問題にすると必ず「死ぬこと」が影についてまわる。このように「自分自身になること」は一生の課題であり、誰も横取りできない、私だけに与えられた課題なのだと中嶋はいうのである。
さて、哲学においては、あらゆることを徹底的に疑い、それを、言語を用いて論理的に精緻に語り尽くそうとするわけだが、最終的な答えはなくとも、納得がいくまで取り組むのであれば、今まで見えてこなかったものが少々見えてくるかもしれないと中嶋はいう。だといって、私が死ななくなるけでもなく、存在しなくなるわけでもなく、時間が止まるわけでもない。世界はすべてあるようにあるだろう。しかし、世界の見え方が確実に変わってくるというのである。世界は当然のものではなく不思議なものとして立ち現れてくる。世界の骨格が揺らぎだしてくると中嶋はいうのである。
このような哲学の具体的な思考プロセスを、中嶋がニーチェの「永劫回帰」を徹底的に考察した際の骨格を例示することで紹介しよう。中嶋が理解するニーチェの「永劫回帰」とは、物質が有限で時間が無限だとすると、物質の組み合わせは有限であるから、すでにこれまで無限回の同じ組み合わせが生じていたはずであり、「今私がここでこうしていること」もすでに無限回生じたはずである。とすると、さらに未来永劫にわたって「私がここでこうしていること」は無限回生じることであろうということになる。しかし、中嶋はこの概念はかずかずの間違いから成り立っていると考える。まず、単純に物質が有限で時間が無限であるという前提がおかしい。次に、たとえそうだとしても、物質の組み合わせが有限であるというのは、物質をそれ以上分割不可能なアトムに分解できるという前提があるからで、これがおかしい。それから、今私がこうしていることはこれまで無限回生じたことになるが、無限回を経て現在に至るということは不可能だからおかしい。こうした単純な疑問が次々と出てきて「永劫回帰」などという奇怪な概念は一滴も呑み込むことはできないと中嶋はいう。
上記の例が示すように、何事もトコトンまで考えると、すべてが疑問になってくる。例えば、「私」や「時間」が不思議で不思議で、気がついてみるといつのまにかそれを考えてしまっている。しかし、私はそれを自由に追究できる。なぜならば、この人生で絶対的に禁じられたことは何もないからである。そして、あらゆることに疑問をもち、トコトン考えると、世界の見え方が確実に変わってくるというわけである。いままで平凡に見えていた日常の些細なことが、これほど不思議で面白いことに気づくのである。