量子力学における多世界解釈とは何か

和田(1994)は、いわゆる物体の振る舞いと、それを構成している原子の振る舞いが想像以上にまったく異なる様相を示すことを指摘し、それゆえに量子力学という新しい物理学が誕生しなければならなかったのだという。量子力学によって原子の世界を表現するには、従来の物体に対する見方を本質的に変えなければならないことが分かっているというのである。そして、量子力学がこの世界の根本原理だとしたら、原子1つ1つのみならず、それから構成される物体、人間、天体、そして宇宙全体も同じ原理で説明されるべきものなのだと和田は主張する。そのような従来とは本質的に異なる世界の見方の中で、和田は「多世界解釈」を中心に議論を展開している。


量子力学で明らかになったミクロの世界の特徴は、例えば電子の振る舞いにおいてエネルギーが飛び飛び(整数倍)の値しか持たないことである。これを「量子飛躍」とか「量子跳躍」と呼ぶが、これを説明するのにシュレーディンガーが構築したのが、波動方程式である。波動方程式では電子のエネルギーの値を振動数として理解するわけだが、それは同時に、電子を数学的には波として表現することでもある。電子を波として捉えるシュレディンガー方程式は、電子の振る舞いにかんする様々な観測事実をなんの矛盾なく説明できる。つまり、電子は波の性質を持っている。しかし、電子は粒子の性質も持っていることも観測事実から分かっているため、粒子としての電子の状態を特定しようとすると、シュレディンガー方程式では電子の位置を確率的にしか決めることができない。つまり、電子の波は確率波だと解釈される。これは、電子はどこかにあるのだがその位置がわからないので確率で表すという意味ではなく、本質的な意味において電子の位置は確率的にしか決まらないことをシュレディンガー方程式が示しているのである。しかし、実際に電子の位置を測定してみると1か所に定まるので、その時点でシュレディンガー方程式でいうところの波が収縮してしまったかのように見える。以上の話が示すのが、量子力学における「粒子と波の二重性」と「波の収縮」という論点である。


古典力学では、電子にしろ他の粒子にしろ1つの粒子は一か所にしか存在しえない。しかし量子力学では複数の状態が共存しており、しかもお互いに影響を受けながら変化している。そして各状態には共存度という数字が付随しており、粒子の各位置ごとに共存度を並べると、波の形をしている。和田は、電子は各状態では一か所にしかないのだから電子をあくまで粒子であると考えてもよいが、複数の状態が共存しているのだから、電子は波のようにも見えるのだと解釈する。これが「粒子と波の二重性」の1つの解釈である。とりわけ「多世界解釈」においては、人間も含めて世の中すべてのものが電子と同様に「波」として表されなければならないという。それはどういうことかというと、ミクロの世界で無数の電子の状態が共存していると同時に、マクロの世界でも無数の世界が同時に共存しているということである。つまりこれは、シュレディンガー方程式における波が収縮することを認めない立場であり、ミクロの世界とマクロの世界の間には断絶がなく連続しているという前提のもと、波を波のままで解釈しようという立場である。ミクロの世界の観測事実を矛盾なく説明できるシュレディンガー方程式をもっとも素直に解釈する立場であるともいえる。波の高低は、無数の世界の共存度を示している。


また、和田によれば、多世界解釈では、無数の世界が共存しているのだから、過去においても、共存する無数の世界に基づく考えられるすべての歴史的経路が足し合わさった形で現在の状態を形成していると解釈する。つまり、現在の状態を導いた過去の歴史(経路)も1つに特定することはできない。ただこれは、波を波として理解する限り、そう解釈するのがもっとも素直であるという態度を示しているともいえる。マクロの世界については、「波の収縮」を認める立場であるコペンハーゲン解釈においては、観測するときに波の収縮が起こるので、マクロの世界は1つしかないと主張する。一方、多世界解釈においては、マクロの世界でも複数の世界が共存していると考える。ただ、共存する状態はお互いに無関係である。独立かつ無関係な世界が多数存在すると考える。そして、量子力学で共存度が完全に計算できている限り、世界がどのような共存度で共存しているか完全に分かっている。量子力学で表される世界を人間が観測する時にその結果を断定できないのは人間の側の問題だと和田は考える。そもそも、人間という存在も精神という機能も、世界の中の1つの現象であるから、複数の状態の外側に立って全体を見通すことはできない。つまり、人間も1つ1つの状態の中に存在し、自分が存在している世界しか観察することはできない。つまり、量子力学は自然を完全に記述しているのだが、人間はその一側面しか見ることができないのだと和田は主張するのである。