中心と周縁からなる構築物としての知識体系

青山(2012)は、「いかなる知識や信念の体系も、周縁に沿ってのみ経験と接する人工の構築物である」というクワイン全体論ホーリズム)を紹介している。つまり、科学全体は、「境界条件が経験である力の場」のようなものであり、「周縁部での経験との衝突は、場の内部での再調整を引き起こす」というのである。ここでは、ある経験が場のなかの特定の部分と結びついているのでない。なぜなら、経験による場の内部の再調整は、場全体のバランスが保たれる限り、多様な仕方でなされうるからである。


場の中には、周辺部(周縁部)に近く、経験による修正を受けやすい知識もあれば、中心部に近く、めったに修正を受けない知識もある。論理法則のように、けっして修正を受けない必然的真理に見えるものさえ、中心部に含まれている。しかし、この中心と周辺の関係はあくまで相対的なものであり、経験による修正を受けうるという意味で、場の内部の知識はどれも対等であると青山は解説する。ただ、できるかぎり大改革を伴うような中心部には手をつけず、周辺部の修正で済まそうとする保守主義によって、知識体系の現状があるという。


いかなる観察も、諸命題の集合全体を検証するものであり、何らかの単独の命題を検証するものではない。例えば、科学的な実験・観察によって検証されるのは、単独の命題ではなく、その命題を含む多数の命題のまとまり、すなわち「理論」である。青山は、いくつかの例を紹介する。水銀式体温計で自分の体温を測ったときに37度の目盛を指したという観測事実は、「私の体温が37度である」という単独の命題を検証するものではなく、「水銀が熱で膨張する」「その膨張率が熱の上昇率と正比例する」などの命題の連関の中で検証される。


青山が紹介するもう1つの例として、原子核の観察がある。「霧箱」という装置を用いて、原子核を観察できるが、これを使っても肉眼で物を見るように原子核が見えるのではない。実際には原子核の飛行の跡と考えられる霧の乱れが見えるだけである。そこから、原子核が存在すると言うわけだが、それは、原子核の移動によって空気がイオン化する、イオン化された空気に水が引き寄せられるなど、複数の理論的前提に支えられている。つまり、観察が理論に支えられている「観察の理論負荷性」と呼ばれる事態が起こっており、いっさいの理論負荷性がない、純粋な観察というものはありえないと青山は説明するのである。


つまり、いかなる観察も何らかの理論を前提としており、その理論は数多くの命題の集まりであるから、どんなに個別的な実験・観察であっても、それは諸命題のネットワーク全体をいっぺんに検証するものである。そこで、その命題のネットワーク全体と実験・観察とに不整合があれば、命題のどこを改変してつじつまを合わせるかには自由度があり、実際には、保守主義的な観点から、できるだけ中心部には手をつけず、周縁部の改変によって命題のネットワークもしくは知識体系全体のバランスを維持しようとするわけである。