認知科学の発展によって何がわかってきたのか

鈴木(2016)によれば、認知科学とは、知的システムの構造、機能、発生(しくみ、はたらき、なりたち)における情報の流れを科学的に探る学問である。別の言い方をすれば、認知科学は、情報とその処理をキーワードとする学際的研究分野である。もう少し正確にいうと「表象」と「計算」に関わる学問である。私たちは、入力情報に対してさまざまな計算(処理)を行うことで表象を作り出し、その表象に基づいて出力がなされると考え、これを「認知プロセス」として理解するわけである。この理解に基づき、認知科学では、知覚、記憶、概念、思考などの研究がなされてきた。


認知科学から得られた知見から、鈴木は、人間が扱う表象は貧弱ではなかいと述べる。例えば、私たちは実際はごくごく限られた場所からの情報取得しか行っていない。それに基づく表象、記憶表象はとてもはかなく、後続の情報によって(部分的に)上書きされたりするし、断片的である。しかし、そうしたもろさ、はかなさ、状況への応答性が、私たちの認知の驚くべき柔軟性、可塑性の基盤となっていると鈴木は指摘する。自らの経験が断片化され、それが他の経験と独特の仕方で混ざりあい、状況の要素と相互作用しながら再構成されることは、人間が、この場にないもの、そうは見えないもの、今まで体験したことのないものまで作り出せる芸術性などと関連していると説く。


つまり、知覚表象はともかく記憶表象は頭の中の貯蔵庫にしっかりとした形で存在し、それが必要に応じて検索され利用されるわけではないと考えられる。例えば、ある概念のまとまりとしてのカテゴリーの表彰は事前には存在せず、絶えず状況とのインタラクションのプロセスで作り出される。つまり、カテゴリー表象は実体というよりはプロセスである。また、知覚的シンボルシステムでは、カテゴリーは身体化している。つまり、カテゴリー表象は言語のような特定のモダリティーに依存しない記号に変換されているわけではなく、現実世界や身体との接点となる各モダリティーに関する神経状態のパターンとして存在しているという。


また、人間はさまざまなリソースを用いて、ゆらぎながら知性を生み出していると鈴木は解説する。ここでいうリソースとは、経験から得られ、個体の中(頭の中)に蓄積されたものだけでなく、状況、環境、世界も含まれる。例えば、何かを知ろうとするときにやることは世界が教えてくれる。つまり、世界からの情報が人間の思考などをガイドしてくれる。また、世界が、記憶の補助としての役割を担ってくれている。つまり、問題のルールのようなものも世界の中に埋め込んで、世界に記憶させてしまうことで、記憶を維持するための努力が不要となり、そうして節約できた認知的エネルギーを探索や推論など他の処理に向けることが可能となる。さらにいうならば、私たちの内部の処理システムは助けになる世界を前提として設計されている可能性もあると鈴木はいう。


人間が行為を通じて世界に働きかけることによって、世界が何かを見せてくれる、覚えてくれる、問題を変えてくれる。また、人間は道具を使うことによって、世界との関わりをもっと拡張することができる。このように考えると、人間と世界は身体、行為を通じて交じり合い、その境界はあいまいなものとなってくる。これを「拡張された心」という概念として提案する哲学者もいることを鈴木は指摘している。