一川(2012)によれば、体験された内容と実際の世界とが異なることを錯覚といい、視覚に関する錯覚を錯視という。有名なミューラー・リヤーの錯視のように、錯視は、あらかじめ分かっていても、そう見えてしまう。これは人間が本当の世界の姿を捉えられないという欠陥を示しているのだと思うかもしれない。
しかし、錯視が起こるのは、人間が進化の過程で、環境に適応するために獲得した機能(例えば脳における信号処理の仕組み)だということも一川は示唆する。進化論的、生物学的にいうならば、そもそも人間は実際の世界を「正しく」認識する必要などなく、従来の環境の中で生きていくために行動するのに必要なものさえ認識できればよいのである。であるから、紫外線のように、実際の世界を表すさまざまな情報の中でも人間が五感で認識できないものは数多くあるわけである。
人間は「従来の」環境で生きていくために長い年月をかけて現在のハードウェアとしての知覚の仕組みを獲得してきたわけであるが、現在の人間社会は「従来」の環境をはるかに超えたかたちで発展しているために、人間が持っている知覚の仕組みでは想定外のものを見たりする。そこで、実際の姿とは異なって見えてしまうという錯視が起こると考えられる。
例えば、視覚による3次元の空間知覚である。私たちが、外界を空間として知覚できるのは、そういった空間知覚が従来の環境で生き残るために必要だったからである。しかし実際には、網膜に移るのは2次元情報でしかないので、脳の中で2次元情報を3次元に変換したうえで初めて、空間を認識することができる。そこには、2次元情報から3次元情報に復元するための計算機能が生まれつき持っている神経回路として備わっており、繰り返すように、それは正確な計算というよりも、生きていく上で十分な計算なので、2次元情報のいくつかの手がかりを用いて3次元空間を類推するような仕組みになっていると思われる。
そして実は、人類の長い歴史の中で、人間はほとんどの間は2次元情報を道具としては用いてこなかったのである。絵画を描き始めたのは人類の歴史の中ではほんの最近のことである。であるから、2次元情報の中に、先ほど述べた3次元情報を復元するような手がかりが含まれていると、脳の中で自動的にそれが作動してしまって、実際の2次元の世界とはことなる知覚が生じてしまうわけである。いくらそれが錯視であるとわかっていても、生物としての人間の脳にあらかじめプログラム化されている機能が作動してしまうので、私たちは錯視を免れないのである。同じ長さの線分が異なる長さに見えるような錯視は、そういったメカニズムで起こると考えられる。