目的論的意味論で「機能」の概念を自然化する

「意味」とは何だろうか。例えば、われわれは「人生の意味とは何か」とか「それに何の意味があるのか」と問うたりする。「意味がある」ということは、何らかの目的を実現するための「機能」を持っていると捉えることができる。そこで、「機能」とは何かという問いにもつながってくる。ここで、唯物論的立場から「意味」や「機能」を捉えようとする戸田山(2014)は、「目的を実現するための手段」という視点から「機能」を捉えることをせず、自然科学的な発想、すなわち因果関係論的な発想から「機能」を定義しようとする。それは何故かというと、戸田山は「科学的世界像の中で人間とは何かを考える哲学」を推進しようとしているからである。そのような立場からは、例えば、「意味」や「機能」のように、物理的な意味では実在しないと思われるもの、つまり人間が自分の都合のよいように勝手につくりだした実体のないものにすぎないと思われるものであっても、科学的世界像の中に位置づけて説明することが重要になってくるのである。


さて、科学的世界像の立場から見ると、「目的を実現するための手段」として「機能」を捉えることが不都合になる。何故ならば、それだと、「投げた石が落下するのは、石がもともと属していた大地に戻ろうとするから(大地に戻るという目的を実現するために落下する)」という形で物理的現象を説明するようなものだからである。科学的世界像では、目的が先に存在して、それを実現するために特定の機能が生じるとは考えない。科学的世界像では、このような目的論的説明を、因果論的説明に置き換えてきたのであるから、科学的世界像に立つならば、誰の意志とも関係なく、あるいは人間の存在とも関係なく、起こるべくして起こるといった、因果関係的な視点から「機能」を捉える方法、すなわち機能の「自然化」を考えなくてはならないのである。しかし、単純に因果関係を当てはまるような「因果意味論」でもうまくいかないと戸田山は言う。因果関係的に何かをもたらすものを「機能」と捉えてしまうならば、「機能不全」を起こしているものを、本来の機能を持ったものと同一の意味カテゴリーに含めることができなくなってしまう。本当は、ものが切れない(機能不全の)ハサミでも、正常にものが切れるハサミとおなじ意味カテゴリー(つまりハサミ)として認識されなくてはならない。


そこで戸田山は、「機能」と「本来の機能」を切り離し、「本来の機能」に焦点を絞る。これで、機能不全のものも、機能を果たしているものも、「本来の機能」は同じものとして同一の意味カテゴリーに含めることができる。そして、「本来の機能」の定義の「自然化」を図る。「本来の機能」が自然化できれば、本来の機能は人間の解釈によって決まるのではなく、自然界の側で決まっていると考えることが可能になるので、科学的世界像の中に位置づけることができるようになるのである。つまり、われわれは、「本来の機能」を人間側で作り出すのではなく、自然の側で決まっている「本来の機能」を発見するだけなのである。そして戸田山は、「本来の機能」の自然化を図るのに有用な考えかたとして、ミリカンの「目的論的意味論」を紹介する。この考え方は、因果論的説明と、起源論的説明もしくは発生論的説明を組み合わせたものとして理解することができる。進化の歴史に訴えたものという言い方もできる。


ミリカンの「目的論的意味論」によれば、「Sが持つアイテムAがBという機能を持つ」とは、「SにAが存在するとは、Sの先祖においてAがBという効果を果たしたことが、生存上の有利さを先祖たちにもたらした結果」と同じだとする。こうすることで、Aという機能を、Bという「目的」を実現するための手段というように逆算して考える(ここに存在論的に逆の因果関係が含まれてしまう)のではなく、あくまで、AからBへの方向性を持った因果関係(因果論的説明)、そしてそれがSにAがあるということにつながる因果関係(進化論的説明)のみで捉えることができている。つまり、AとBが因果関係でつながっているという科学的事実の中で、進化論的な自然淘汰という因果関係によってAがSに存在しているのであるから、Aの本来の機能はBだと言える。Bという効果をもたらすAが自然淘汰によって現在存在する。よって、ここにあるAがBの効果を持たなくても(機能不全であっても)、一般的にはAの本来の機能はBである。このように、ミリカンの目的論的意味論によって、「本来の機能」の自然化が見事に実現できていると戸田山は説明するのである。