インドにおける仏教とヒンドゥー教の複雑な関係

仏教もヒンドゥー教もインドで生まれた宗教である。しかし、仏教がインド以外の国々に広まっていったのに対してインドでは仏教が消えてしまい、ヒンドゥー教が最大の宗教となった。橋爪(2013)は、その理由と背景を以下のように解説する。


まず、仏教とヒンドゥー教を比較したときに、仏教の考え方で重要なのは「仏が神よりも上(仏>神)」という不等式であると橋爪は解説する。仏とは「覚った人」という意味なので、仏教では神より人間が大事であり、人間中心主義である。神なんか拝んでいる場合じゃない。そんな暇があれば自分が修行してさっさと仏になりなさいということである。仏教では、仏は自分自身、自分の理想なので、仏になることを目指して、努力することが大事だとする。その努力以外に価値はないので「偉い神様がいるらしいが私は関心がありません」というのが仏教なのだと橋爪はいう。


実際、仏教の経典にはインドのヒンドゥー教の神々が登場する。梵天ブラフマー神)、帝釈天(インドラ神)、広目天毘沙門天、弁財天などである。しかし、これらの神々(天)の役割は、端的にいうと「お釈迦様の応援団」なのだと橋爪はいう。インドの神々は、覚りを開いたブッダに感心し、褒めちぎり、インドの民衆のためにどうか法を説いてくださいと懇願する立場である。


しかしインドでは、ヒンドゥー教の逆襲があって、「仏>神」が「仏<神」に入れ替わってしまったと橋爪は示唆する。それを可能にするロジックがヒンドゥー教にあったのである。


ヒンドゥー教の根本的な点は、神が「化身」するという考え方だと橋爪は指摘する。ヒンドゥー教は固定したドグマや内実をもつ宗教ではなく、インドにある宗教すべてのことと考えるべきではないかという。それぞれのグループが固有の神を信じているとしても、それはそのままでいい。神には本来実体がなく、あらわれるときにそういうかたちになるというわけである。「神々は大勢いても実は、ひとつの神がいるのと同じ」ということである。そのひとつの神は名前もないし、正体も教えてくれない。なぜなら神に名前をつけて「こういう神です」と言ったとたんに、数ある神々のなかのひとつにされてしまうからである。


仏教の論理からすれば、ブッダを大事にし、ブッダの教えに従うのが仏教なので、私たちはヒンドゥー教とは違いますと主張するのであるが、ヒンドゥー教の側としては「ブッダは、ヒンドゥー教のこれこれの神が化身したものだ。知らないのか」と主張する。具体的に言えば、ヒンドゥー教でとくに大事な神が、ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァであるが、慈悲深い神であるヴィシュヌのいくつかの化身の中に、仏教の開祖であるブッダも入っているのである。このような論法で、由来の異なる信仰がいくつも束になってできたのが、ヒンドゥー教なのではないかと橋爪はいう。