幸せなイスラム宗教共同体と近代社会との不協和

竹内(2013)は、イスラム教の本質は、宗教共同体をつくることであると論じる。イスラム教ではアラーが唯一絶対の神であり、すべての創造主であって、森羅万象を支配し、かつ最後の審判の判定者である。よって、イスラム教徒は、すべてをアラーに委ねている。イスラム教の創始者ムハンマドは、神から啓示を受けた特別な人間であり、その啓示を基礎とした壮大な法体系がつくられ、その法体系を基礎として宗教共同体が形成されているという。イスラム教徒は、共同体の中で恐れや不幸を感ぜず、貧しくても心豊かな人生を送り、死後には、緑が豊かで蜜の川が流れ、豊富に酒が飲め、絶世の美女が溢れる天国に行けるという。つまり、イスラム教では、イスラム法体系に沿った集団的な生活を送れば天国に行けるのだと竹内は解説する。


イスラム教は心地よい宗教であるから、急速に普及した。しかし、イスラムの国家では宗教が哲学や科学を抑圧し、科学が宗教から独立できず、経済成長力が失われ、また大航海時代への移行にともなう世界経済の変化や産業革命の意義を理解できなかったので、交易でも産業でも、ヨーロッパに圧倒的名格差をつけられたと竹内は指摘する。竹内は、そもそもイスラムの国家は、近代化に遅れる宿命を負っていたために、ヨーロッパから侵略され放題だったのだと論じる。


具体的には、まず、近代社会の生活がイスラムに馴染まなかったのだと竹内はいう。近代社会における労働者は、イスラムの戒律ではなく企業の規則で動かねばならない。国際標準時刻によって社会が動き、「日の出を朝とし、日の入りを夜」とするイスラム時刻と整合しない。カレンダーも太陽暦であり、イスラム歴ではない。工場では機械設備が連続運転するので、お祈りの時間もとりにくいし、能率低下や安全上の問題があるため、断食も難しい。つまり、ヨーロッパ発の近代社会は、イスラム教徒にとっては、アラーの教えに反した行動を要求するのだと竹内は解説するのである。


また、近代化国家のシステムは、独立した個人を前提として成立しており、その政治制度や社会秩序は、集団で生きるイスラム共同体のそれとは全く異なっていると指摘する。男系社会であり、集落が血縁的関係が濃い大家族で形成され、イスラムの戒律を守っているような伝統的なイスラム社会は、近代化に則った変化がしにくいし、だいいち、個人が独立して勝手に行動し、他の共同体や異教徒の工場で働いたりすることはイスラム社会への反抗であり、許されないというのである。


したがって、中東をはじめとするイスラム社会では、近代化はイスラムの戒律を破ることになるため、近代化政策によってヨーロッパに追いつくのか、あるいは貧しくても宗教共同体に生きるのかは、深刻な問題であったする。例えばトルコでは、近代化の国王派と反近代化の宗教指導者が対立し、武力闘争にまで発展することがあったという。