客観性を担保する視点は存在するのか

自然科学に代表される科学が前提としているのは、正確な用語とはいえないかもしれないが「客観性」であるとしよう。なるほど、客観的な視点から、この宇宙、世界、自然を考えた場合、それはわれわれ人類とは独立したものとして捉えることが可能になる。例えば、宇宙ないしは地球は、人類が出現するはるか以前に発生し、人類が滅亡した後もずっと続いていくだろうということが、現在の自然科学的知見から想像できる。宇宙は自然は、われわれ人類が存在するしないに関わらず、実在する。そして、宇宙や自然を支配している物理法則は、人間の意志とは無関係に存在し、人間を含む万物の生成や運動を支配している。多くの人はそういったことを何の疑いもなく信じることができる。たしかにそうだろうと。しかし、である。


上記のようにわれわれが何の疑いもなく信じることができるのは、自然科学を中心とする学問の発展のおかげである。自然科学の発展がなければ、地球が丸いなんてことも、地球が太陽の周りを回っているということも、人々が知るよしもなかっただろう。科学の発展のおかげで、現在私たちが常識として持っている宇宙や自然に関する知識は、あたかも真実のように思えるのである。しかし、自然科学の発展を支え、このような宇宙、世界の知識の前提となっている「客観的な視点」は、本当に存在するのだろうか。「誰から見て」宇宙や世界について上記のようなことが言えるというのか。少なくとも「私」ではない。私自身は、生まれる前のことも、死んだ後のことも経験できないからである。私以外のすべての人々にとってもそれは同じではあるまいか。そうするとますます「客観的な視点とは誰の視点か」「自然科学などによって明らかになってきた世界は、誰の目からみた世界なのか、どこから見た世界なのか」の答えはあやしくなってくる。


自然科学が発展する前提となったのは、人々の主観を排した「客観性」だったわけであり、客観性とは、あらゆる人々から独立した、いわゆる「神の目」でもって宇宙や世界を俯瞰したものといえる。しかし、そういった客観的な視点が存在するのかという疑問に立ち返って考えてみよう。宗教的にいえば、「神」の存在を信じることによって解決する問題かもしれない。しかし、自然科学者は、科学は宗教とは違うと言い張るだろう。しかし、「客観性」の根拠たりうる、人類を超えたところから見る「視点」あるいはそういった主体が存在しないのなら、そこから見た宇宙や世界もまったく意味がない、というか存在すらしないということになるのではないだろうか。


客観的な視点が存在しなければ、自然科学自体が否定される。客観的な視点なくして、科学的方法論が成り立たない。私たち人間の誰の目からも独立した、客観的な宇宙や世界を見ている主体がいることを想定して、その主体から見た姿が如何なるものかを推論しているのに、その主体が存在しなければ、そこから見た宇宙も世界も存在しないではないか。それは当り前ではないか。では、どうやってその視点の存在を「証明」できるのか。客観的な宇宙や世界を誰かが見ていることをどうやって示すのか。それは証明できない。けれども、われわれは、その存在を「前提」としている。誤解を恐れずに言えば、客観的な視点は、多くの人々が、その存在を「前提」とすることによって、もしくはその存在を「信じる」ことによって、実際に存在するようになったのだ!


存在というのは、人々が存在すると思い込むようになれば、たちどころに存在するようになるのである。それ以外にあるものの存在を証明する手立てがない。それが存在の本質であろう。客観的な視点が「存在」するようになれば、おのずと、そこから見た客観的な宇宙や世界も「存在」するようになる。つまり、私たちは、何の根拠もなく、「客観的な視点」もしくは「神の視点」が存在すると思っているのである。かくしてわれわれは、そういった視点から見て、客観的な宇宙や世界が存在していることをあたりまえだと思い、疑うことがないわけである。