ヴィトゲンシュタインの「論考」と「言語ゲーム」

橋爪(2009)によれば、ヴィトゲンシュタインの著作は、前期と後期に分かれる。前期の「論考」の主題は、世界と言語(もしくは思考)との関係である。「論考」によれば、世界(出来事の集まり)と言語(命題の集まり)とは、ぴったりと対応しており、これを「写像理論」という。要するに「世界は、言語があるようにあり、言語は、世界があるようにある」。思考は言語であるから、言語の限界はすなわち、世界の限界でもある。言語で捉えきれない世界があるのではなくて、言語が世界に他ならない。言語のないところに世界はない。そして、そのことは、「わたし」がここにいることで保障されている、というのだ。これが、「論考」が独我論だと言われるゆえんでもある。そして最後に、「語りえぬことについては、沈黙せねばならぬ」と書いてあるのである。


それに対して、後期の「言語ゲーム」という考え方は、「規則(ルール)に沿った、人々の振る舞い」を指すと橋爪は説明する。これは、言葉の本質に触れている。すなわち、振る舞いの一致によって、言葉の意味がわかるというのだ。例えば、わたしが、空が青いのを見て「空が青い」という。Aさんが見ている空の色は(わたしの感覚から見ると)生まれつき赤なのだが、「空が青い」という。そこで、2人は「青」の意味がわかる。「青」は、視覚経験に対してつけられた言葉ではないのだ。なぜなら、他人にとってどのような色に見えているのは決してわからないので、「特定の視覚=青」という関係を確かめようがないからだ。けれども「同じものを見て青と言う」といった振る舞いの一致は確かめられるのである。「痛い」というのもそうで、他人がどのような感覚経験をしているのかなど知る由がない。だから「痛い」というのは、感覚に対してつけられた言葉ではなく、同じ状況で「痛い」という振る舞いの一致から、意味づけられるものなのである。


つまり「言語ゲーム」の考え方では、写像理論が考えるように言葉はそれ自体で存在するものではなく、言語ゲームとともにあるのである。言葉が意味を持つのも、人々が意味や価値を信じるのも、言語ゲームの働きだというのである。言葉は言語ゲームととともにあり、出来事や意味や価値を含むすべての世界も、言語ゲームとともにあると考えるのであろう。