生命とは何か

ナース(2021)は、「生命とは何か」という大きくかつ根本的な問いに対して、 生物学における5つの考え方を階段を1段ずつ上るようなかたちで紹介し、この5つの考え方を新たなかたちで結びつけることによって、生命の仕組みについての、はっきりとして見通しにたどりつこうとしている。まず、生物学の5つの考え方について説明しよう。

 

1つ目の考え方は、生命の基本単位は「細胞」だということである。これは、物質の基本単位が原子であることになぞらえることができる。ナースによれば、細胞はあらゆる生命体の基本的な構造単位であるだけでなく、生命の基本的な機能単位である。細胞はそれ自体で1つの生命体である。そして、すべての細胞は細胞から生じる。この細胞分裂という機能が、あらゆる生物の成長と発達の基礎だというわけである。

 

2つ目の考え方は、生命には、親と子が似ることが繰り返されるなど何世代に渡る継続性があり、それは、遺伝子を通じて行われるということである。遺伝子の正体はデオキシリボ核酸(DNA)であるが、生物学の発展により、このDNAの構造とそこに含まれている遺伝子暗号が解読可能になり、細胞分裂を通じて遺伝子が合成・複製されるプロセスも明らかになってきた。そして、遺伝子は、安定し続けることによって情報を保存すると同時に、ときには大幅に変化をすることで、生命が実験を行い、進化の原動力になることをナースは示唆する。

 

3つ目の考え方は、生命は自然淘汰のプロセスを通じて進化するということである。1つ目と2つ目の考え方によって、生命では細胞分裂の際に特徴が次の世代に引き継がれていくわけであるが、たまにおこる突然変異が環境に適応したものならば、その特徴が次世代以降に引き継がれることによって進化が起こる。このような自然淘汰を通じた進化は、きわめて創造的なプロセスだとナースはいう。何十億年もかけて、さまざまな種が台頭し、新たな可能性を探り、異なる環境と作用しあうことによって、判別できないほどその形を変えていったのである。そして、すべての種は、絶え間なく変化し、最終的に絶滅してしまうか、新しい種へと進化していくという。 

 

4つ目の考え方は、生命は化学反応によって成り立っているということである。実際、命のほとんどの側面は、物理学と化学の観点から説明できるとナースはいう。生命体で発生する膨大な化学反応を「代謝」と呼ぶ。代謝は生きているものが行う、維持、成長、組織化、生殖などすべての行動の基礎であり、こうしたプロセスを促進させるのに必要なすべてのエネルギーの源である。細胞ひいては生体構造は驚くほど複雑だが、突き詰めていくと、理解可能な化学的かつ物理的な機械だというのである。今日の生物学者は、驚くほど複雑な、生きている機械の全部品の特性を明らかにし、分類しようとしているという。

 

5つ目の考え方は、生物は情報処理を行っているということである。生命が複雑なシステムとして、自らを維持し、組織化し、成長し、増殖する、すなわち自分と自分の子孫を永続させたいという目的を達成するためには、自分たちが住む外の世界と身体の内側の世界との両方の状態について、情報を常に集めて利用する必要がある。つまり、生命の内側と外側の世界は変化するから、生命体にはその変化を検出して反応する方法が必要なのである。このような情報処理は、細胞が生命の基本単位としての化学的かつ物理的な機械だと考えると、どのように情報を記憶したり、利用したりするのかも科学的かつ物理的な視点から理解可能だというのである。

 

そしてナースは、上記の5つの考え方を組み合わせ、次のように生命の基本原理を説明する。生命の1つ目の原理は、生命は、自然淘汰を通じて進化する能力を有しているということである。生殖し、遺伝システムを備え、その遺伝システムが変動するという3つの特徴を持っているものは進化できるし、実際に進化する。2つ目の原理は、生命体は境界を持つ物理的な存在だということである。つまり、生命体は周りの環境から切り離されながらも、その環境とコミュニケーションを取っている。この原理は、生命の基本単位である細胞から導き出される。3つ目の原理は、生き物は化学的、物理的、情報的な機械だということである。自らの代謝を構築し、その代謝を利用して自らを維持し、成長し、再生する機械なのだという。

 

ナースは、上記の3つの原理が合わさって初めて生命は定義されるとし、この3つすべてに従って機能する存在は、生きているとみなすことができるというのである。

文献

ポール・ナース 2021「WHAT IS LIFE?(ホワット・イズ・ライフ?)生命とは何か」ダイヤモンド社

デジタル社会の本質とミルフィーユ化する世界

西山(2021)は、デジタル化の進展でいま何か決定的な変化が起こりつつあると指摘し、デジタル化が全面化する時代に変容しつつあるのは、個々の企業の経営のあり方だけではなく、企業が活動する産業そのもの、消費者を含めて取引を行う市場そのものが、新しい形に変容しつつあるということであり、そうした産業や市場の変化は、ソフトウェアあるいはAIのあり方と不即不離の関係にあると主張する。このような視点に立ち、西山は、インダストリアル・トランスフォーメーション(IX)の地図のようなものを描くことを通して、IX後の新しい産業のエコシステムを、レイヤー構造(重箱がいくつも重なるような層の構造、お菓子のミルフィーユのような構造)という形で表現している。以下においては、西山の発想にヒントを得て、デジタル社会の本質について理解してみることにする。

 

デジタル社会の本質は、あらゆる情報が仮想空間上に入力され、0か1の二進法の記号配列に変換され、この記号配列を別の記号配列に加工、変換する手続き(アルゴリズム)に沿ってAIが高速に演算するようになることである。現象界では、私たち人々は何らかの課題を持っており、その課題を解決することでこの世の中をよくしたいと思っている。それがビジネスという活動の本質でもある。そして当然のことながら、これらの課題には意味があり、何らかの価値観に基づいて解決がなされるべきものである。しかし、そのような課題でも、究極的に0か1の記号配列に変換されてしまえば、意味や価値はそぎ落とされ、純粋な数学的演算の対象となる。AIは、情報の意味や価値を理解できないが、記号配列を操作するアルゴリズムさえあれば高速かつ正確に演算できる。つまり、問題を定義して解決するアルゴリズムさえあれば、世の中のあらゆる問題がこれまで以上に大量、高速、正確に、すなわち効果的に解決されていく可能性があるわけである。

 

つまり、どのような問題でも、意味や価値を理解できないAIがアルゴリズムに基づいて演算できるレベルにまで抽象化して記号配列に変換することが可能なのであれば、あとはアルゴリズムで解決可能になるのであり、産業がまるごとそのようなプロセスに変換されるというのが、西山が指摘する「産業丸ごとの変換=インダストリアル・トランスフォーメーション(IX)」なのである。具体的な現象や課題を記号配列に変換し、かつアルゴリズムで処理することは一足飛びにはできない。ではどうすればよいかといえば、徐々に、段階的に、対象とする現象や課題の抽象化・記号化を進めながら、意味や価値といった人間にしか理解できない要素をそぎ落としていき、究極的に、機械(AI)が分かるレベルにまで記号化していくということである。人間が理解できる自然言語とAIが理解できる機械語はかけ離れすぎているので、通訳を重ねることで人間の実課題をAIが処理できる機械語にもっていくということである。まさに、深層学習(ディープラーニング)のプロセスのごとく、プロセスを多層化することで現象界における具体的な事象をAIが処理できるレベルに変換していくわけであり、これが、世界や産業がレイヤー化、ミルフィーユ化していくということの本質なのである。
 

であるから、現実のビジネス社会や産業全体では、様々な商品、サービス、業種・業態があり、それらを通じて社会の問題を解決し、社会をよくしようとしているわけであれば、これらの様々な要素がいくら現象面では意味的に異なるものであっても、これらすべてがAIや機械が解することができる記号配列とアルゴリズムにまで抽象化・変換されてしまえば、意味的な違いはなくなってしまい、すべて同列に扱うことができるようになる。あらゆる情報が0か1の二進法の記号配列に変換されるということはそういうことである。つまり、課題がAIのレベルに到達してしまえば、様々な商品、サービス、業種・業態といった違いは全く意味をなさなくなる。純粋にアルゴリズムに基づいて特定の記号配列が他の記号配列に人間の能力を超越したかたちで高速かつ正確に変換されるというプロセスが存在するだけなのである。

 

では、西山が解説する産業の産業全体のレイヤー構造とはどのようなものか。概念レベルでは、具体から抽象に上っていき、抽象から具体に下がっていくという表現のほうが分かりやすいが、デジタル概念でいうと反対で、AIや機械語に近いレベルが「低水準」で、人間の活動や人間が理解できる自然言語に近いレベルが「高水準」である。最下部に位置するのが「計算処理基盤」で、上位に位置するのが「データ解析基盤」である。これらを基本として、それらがいくつもの層にレイヤー化され、ミルフィーユ化されつつあるということである。最下層の計算処理基盤は、産業全体のインフラと化しつつあるので、個別企業が構築する必要はなく、シェアして使えばよい。一方、ミルフィーユの上位の層にいくほど、企業や事業の個別の課題を解決するためのソフトウェア、アプリ、システムといったレベルになっていくので個別企業レベルで取り組む話となる。レイヤー構造の最下部では意味や価値を理解しないAIがひたすら純粋な演算をゴリゴリと大量・高速・正確に行うわけであるが、上位層のシステムやアプリといったレベルになると、個別企業や個別事業のレベルにおいて、現象界の意味のある実課題が入力され、意味のある解決策が出力されるという理解となる。

このようなミルフィーユされた産業や世界において、課題や業務をAIレベルまで落としてしまえば、AIの演算能力を全面的に信頼して任せてしまえばよい。よって人間がなすべきことは、多層化された(ミルフィーユ化)された産業構造の中で、階層を下っていく際に具体的な現象や課題を抽象的な記号配列やアルゴリズムに変換する方法を設計し、レイヤーを追加したりする作業、逆に階層を上っていくことで変換後の記号配列を具体的な現象や解決に復元するプロセスを設計することなのである。なぜならば、意味や価値を理解することができるのは人間のみであるから、意味のあるものを無意味な記号配列に変換していくこと、そして無意味な記号配列を再び意味のあるものに復元することは人間にしかできないからである。アルゴリズムそのものについても、AIや機械はその意味を解することなく忠実に従うだけなので、その意味が分かる人間が介在することなしには構築することはできないのである。

 

つまり、いつの時代においても、現象界では、意味や価値のある問題、課題(例、社会問題、顧客ニーズ)が存在し、そこから、意味や価値のある解決策(施策、商品・サービス)が生み出されるわけであるが、過去のアナログ時代では、このプロセスは直接的につながっており、そこに人やモノが介在していたのである。よって、このプロセスでは人間の能力の限界という制約条件があった。しかし、デジタル社会では、産業基盤全体がエコシステムとして高水準のアプリやシステムから低水準の計算処理基盤までミルフィーユ化されており、問題・課題から解決に至るプロセスにおいてミルフィーユの階層を下ることで抽象化・記号化し、記号配列の高速演算を経た後、階層を再び上ることで演算後の記号配列を具体化・意味づけするというプロセスが介在しており、計算能力では人間の能力を凌駕しているITやAIの威力を借りれば圧倒的に高速・正確・大量に行うことができるのである。ポイントは、このプロセスは企業単位、事業単位で行うのではなく、産業全体が丸ごとミルフィーユ化され、業種・業態を問わず産業全体として丸ごと実行されることで効率・効果のメリットが最大化するとういうわけである。

 

要するに西山は、デジタル化の本質をとらえ、産業全体がレイヤー化、ミルフィーユ化するということの全体像を十分に理解したうえで、各企業がそのミルフィーユ化された産業にどのように関わっていくかを明確にしたうえでDXに取り組むべきであることを強く主張するのである。 

文献

西山圭太 2021「DXの思考法 日本経済復活への最強戦略」

会計×戦略思考の本質

大津(2021)は、「会計がわからなければ真の経営者にはなれない」という稲盛和夫氏の言葉を引用しつつ、会計の数値を企業活動と結び付けて考えることができる人ほど、会計を手段として使いこなすことができていると論じ、「会計✕戦略思考」というかたちで経営に役立つ会計スキルを身に着けるための考え方を紹介している。 

 

大津によれば、会計数値を定量的に理解し読み解く力を「会計力」と呼び、経営の外部・内部環境を的確に把握し、その企業が採用する経営戦略を定性的に理解することで企業活動を読み取る力を「戦略思考力」と呼ぶ。この会計力と戦略思考力は相互に密接している。なぜならば、企業活動があった結果として、会計の数値がつくられるのであり、将来の企業活動の計画があって、会計の予想数値が作られるからである。一方、会計数値を紐解くことで、企業活動をある程度類推することも可能である。

 

上記のように、経営戦略を紐解くことでその企業の会計数値の構造をある程度推測し、会計の数値を見ることで企業活動をある程度推測するという、原因としての企業活動と、結果としての会計数値の両者を往復することが抵抗なくできる人ほど、会計を実に有益なツールとして活用できていると大津は指摘する。そして、定量的な「会計力」と定性的な「戦略思考力」を結びつけるものが「論理的思考力」だと大津はいう。

 

企業活動と会計数値の往復をスムーズに行うための方法として、なぜそうなるのかという「WHÝ?」を考え抜き、そこから得られる結論を具体的な行動に結び付けることを考えることが重要だと大津はいう。企業活動と会計数値を照らし合わせ、「WHY?」を考え抜くことで、本質的な原因の解明を行ったら、そこから何が言えるのか、すなわち「SO WHAT?」を問いかけることで、解明された原因から本質的な経営の意味合いを導き出す。そして、どのように解決していくのか、すなわち「HOW?」を考え、意思決定・問題解決のアクションにつなげていくというわけである。

 

上記のように、会計✕戦略思考の最終的な目的は過去の分析ではなく、将来に向けた意思決定であることを理解することが重要である。将来の正しい意思決定を行うために、過去からしっかり学ぶことが不可欠ということである。会計数値の分析だけでアクションプランをすべて構築できるわけではないが、会計数値からのアプローチは、これまでのイメージと異なる真実を知り、意味合いを考え、次の打ち手を考えるための洞察力を与えてくれると大津は論じる。イメージを持つことは大切だが、イメージと数値が異なっていれば、正しいのは必ず数値なのだというのである。

 

会計✕戦略思考の具体的なトレーニングの方法として、大津は以下のようなものを挙げている。1つ目の方法は、決算書を見るまえに企業情報などから決算書をイメージして仮説を立て、その後、決算書を読むことで仮説を検証するというものである。決算書を見るまでにどこまで決算書をイメージできているかが、分析の深さとも結びついていくという。2つ目の方法はその反対で、決算書の数値から仮説→検証のプロセスを通して企業名を当てていくような方法である。この訓練を積むと、新たな事業計画を立てる際にも、どういった収益構造や利益構造を目指し、どのような投資や費用、資金調達が必要になるかを考える能力が身に着くという。

 

上記のようなトレーニングの際に、経営戦略やマーケティングなどの基本と、そこから導かれる収益構造や利益構造、バランスシート(BS)の内容などとの結びつきを理解することも重要である。その際、損益計算書(PL)を読み解く基本法則として「本業か、本業でないか」と「経常的か、特別か」という2つの軸でマトリクス構造に分解して理解すること、そしてBSを読み解く3つの基本法則として「大局観(BSは固まりで読む)」「優先順位(BSは大きな数値から読む)」「仮説思考(BSは仮説を立ててから読む)」を理解しておくことが有用だと大津は示唆する。

文献

「大津広一 2021「ビジネススクールで身につける 会計×戦略思考」日本経済新聞出版

生物と機械はどう違うのか

近年のAI(人工知能)の発達に伴い、シンギュラリティ (技術的特異点)というコンセプトに言及されることが増えている。これは、ざっくりというと将来AIが人間の能力を超えるという予想を指すものであるが、この考え方の根底には、人間のような生物と、コンピュータのような機械とは本質的には同じであるという前提があると思われる。西垣(2016)は、この前提を指摘したうえで、それは根本的に間違っていることを主張する。つまり、生物と機械とは本質的に異なった存在なのである。では、両者はどのように異なっているといえるのだろうか。

 

西垣によれば、コンピュータは純粋に「過去」にとらわれた存在である。コンピュータはプログラムで動く。プログラムの語義は、設計者やプログラマーアルゴリズムを「前もって書く」である。膨大なビッグデータを活用する機械学習、深層学習のような高度なAIが出現しても、本質は変わらず、すべてのコンピュータ処理は「過去」によって完全に規定されているというのである。一方、人間は「現在」の時点で判断しながら生きている。変動する現在の状況に合わせて時々刻々、意思決定を実行しないと生きていけない存在である。つまり、一般に機械とはあらかじめ設計された再現性にもとづく静的な存在であるのに対し、生物とは、流れゆく時間の中で状況に対処しつつ、たえず自分を変えながら生きる動的な存在なのである。

 

さらに、生物と機械の違いは「心と脳」の関係を考えるといっそう明らかになると西垣はいう。西垣によれば、「脳」とは、われわれが外側から、なるべく客観的・絶対的に分析把握するものであり、一方「心」とは、われわれが内側から、主観的・相対的に分析把握するものである。例えば、クオリア(感覚質)は、主観に生じる出来事なので、心を内側から観察しないと決してわからないものである。要するに、心と脳とは、観察の仕方や視点に伴ってそれぞれ出現するもので、カテゴリーがずれているのだという。生物も機械も物質的な要素からできているが、以下に示すとおり、要素群の組み立て方や作動の仕方が両者では異なっている。

 

機械は設計されたものだから、その働きを外側から観察することができる。つまり「観察されたシステム」である。機械は人間が設計するものだから、本質的に他律的なシステムであり、そのメカニズムはたとえ複雑であっても外側から観察すれば十分に理解できるわけである。機械やコンピュータが処理をする情報はデータ(記号)に過ぎない。しかし、生物は自らが「観察するシステム」である。主観によって周囲世界を観察し・分類しながら行動している。生物にとっての情報とは「意味」であり、どのように生きていくかを現時点で自律的に決断するための根拠である。このように生物の作動の仕方は自律的であるため、生物にある刺激を与えても、どういう反応が出現するか、完全な予測ができない。生物というシステムを外側からいくら観察しても、そこには原理的な不可知性が残るというのである。

 

つまり、生物は閉鎖系であり自律システムであるから、生きるために外部環境から自分で意味・価値のあるものを選びとり、独自の内部世界を構成するのが生物の特徴である。たとえ自然や外部環境が多様な制約を押し付けてくるにしても、それに完全に従うわけではなく、閉鎖系としての内部世界に基づく自律システムもしくは自由意志に基づく行動を行っているのである。よって、自律性は生命の本質的な特徴の1つだと考えられる。一方、機械はもともと他律的存在だから、自律性とはまったく縁がない。人工知能もいずれは内部世界を持つ自律システムになっていくのではないかという意見があるのかしれないが、ゾウリムシのような原始的生物さえ製造することができない人間が、そのような生命的な自律システムを作れるわけがないと西垣は考えているようである。

 

西垣は、機械と異なる生物の本質は「自らに基づいて自らをつくる(オートポイエーシスする)」存在だというところにあるという。生物は自己循環的に作動するシステムであり、そこには習慣性があるので、生物の反応がまったく見当がつかないわけではない。つまり、私たちは自分の記憶に基づいて会話を解釈しながら記憶を少しづつ書き換えていくのであり、生物集団の繁殖行動も、遺伝的記憶の書き換えという意味で自己循環的である。要するに、生物は自分で自分をつくるので、ある程度、行動は予想できるにせよ、本質的にはその作動の仕方や反応は外側から観察してもよく分からない「閉鎖系」となっている。

 

このように、生物は、外側から頑張って観察すれば作動や出力が細かく予測できる「開放系」である機械とは根本的に異なっている。よって、ネオ・サイバネティクスが試みているように、主観主義の観点を加え、観察する主体という意味での「観察者の視点」から理解しようとすることなしには生物は理解できないと考えられるのである。

文献

西垣通 2016「ビッグデータと人工知能 - 可能性と罠を見極める」(中公新書)

ドラッカー+デザイン思考+ポーター=戦略の創造学

山脇(2020)は、ドラッカーの著作と、デザイン思考と、そしてポーターの競争戦略論を組み合わせることで、 新しい企業モデルである「共感と未来を生む経営モデル」を提唱する。言い換えれば、ドラッカーで「気づき」、デザイン思考で「創造し」、目的達成のための戦略を「実行する」ことを強調する。共感と未来を生む経営モデルを一言で表現するならば、注意深い観察によって未来に関する洞察を得ることで、顧客やユーザーからの共感が得られる「新しい意味」と「新しい世界観」に基づくビジョンを提示し、それを具体的な戦略やビジネスモデルによって実現する経営モデルだといえる。

 

この経営モデルが単なるデザイン思考と異なることの1つは、ビジネスの軸足を決めることの重要性だと山脇はいう。つまり、自分たちのビジネスの目的と使命は何か、そして将来に向けたビジョンは何かを決めることの重要性である。このために必要なのが、注意深い観察を通じて、「変化の兆し」あるいは「兆しにつながる兆し」を見つけることである。言い換えれば、「すでに起こった変化」「すでに起こった未来」を見つけるということである。例えば、人口動態の変化、世代交代、人種構成の変化、政治・経済情勢の変化、GenZと技術変化など、社会・技術革新・経済・環境・政治の変化を観察し、そこから洞察を行い、機会を見つけるということである。

 

そして山脇は、すでに起こっている変化の観察から洞察を得て見つけた機会を事業に結びつけるための一連の作業の方向を決定づけるのが、北極星としての「ビジョン」だという。つまり、大きな視野で、身の回りから世界までを俯瞰し、いま何が起きているのか、これからどのような変化が起きるのか、そしてどのような未来のシナリオを描けるのだろうかを考えるということである。将来に向けてのビジョンこそが、新しいモデルの軸となるのだという。

 

ビジネスの目的・使命(なぜ私たちの会社が存在するのか、何が私たちのビジネスなのか=価値と原則)を出発点として、現在起こっている事象、さまざまな領域でのトレンド・変化を観察して未来のシナリオをつくるプロセスと並行して「共感」「新しい世界観」「新しい意味」をつくりあげ、そこからビジョンを構築していくわけであるが、この「ビジョン=主観的に世界観をつくり、将来のシナリオを描くこと」を助けるのが、デザイン思考であると山岡はいう。ここでのポイントは、ユーザーの心に響き、共感を生む意味、そして世界観をつくることが、世界の顧客を惹きつける要因であるということである。つまり、デザイン思考は共感を生み出すためのツールであり、デザイン思考の本質は、「共感を生む意味と世界観をつくりあげること」なのである。

 

そして、ビジョンから戦略やビジネスモデルが構築されていく、すなわち新しい世界観と意味を戦略の軸とし、生まれたアイデアをビジネス・コンセプトにまとめ、それを実現していくわけであるが、そこで役立つのが競争戦略の理論だと山脇はいう。規模の経済性、サンクコスト、ネットワーク外部性、スイッチングコストなど、経済学の理論をベースとした基礎知識によって経済的要因を理解することが戦略構築の際に役立つのだと山脇はいう。とりわけ、産業の構造要因を分析し、社会・経済・技術・環境といったレベルの地殻変動がどのように当該産業、関連産業、異業種に変化をもたらしているのか、それによって企業行動がどう変化しているのかを理解することで、ポーターのファイブ・フォースを動学化することの有用性が示されている。

 

このように、山脇が提唱する共感と未来を生む経営モデルは、新しい「意味」と「世界観」をつくり、それをビジョンに盛り込み、その目的を達成するために戦略を構築していくことである。とりわけ、人種、あるいは人種間の文化の差を超えて、そして多様化する現実の社会で生活している消費者、ユーザー、観衆、聴衆を感動させ共感を呼ぶには、はっきりとしたメッセージ、「意味」「世界観」を伝えるストーリーテリングがますます重要になってきていると山脇は指摘する。そして、これまで説明した「気づく」「創造する」「共感を呼ぶ」「実行する」というプロセスを効果的に推進するためのマネジメント、すなわち企業内部の整合性、企業の外部環境との整合性、未来との整合性のマネジメントが重要なのだと山脇は説く。すなわち、目的・ビジョン・未来・共感・戦略は明確か、整合的で一貫しているかを確認しながらの経営が必要だということである。

文献

山脇秀樹 2020「戦略の創造学: ドラッカーで気づき、デザイン思考で創造し、ポーターで戦略を実行する」東洋経済新報社

情報化/消費化資本主義の臨界

見田(2017)は、20世紀後半から現在にかけては、「近代」という加速する高度成長期の最終局面であることを示唆するが、この最終の局面の拍車の実質を支えていたのが、1927年の歴史的な「GMの勝利」を範型とする「情報化/消費化資本主義」というメカニズムだという。見田によれば、プレGMの勝利の時代では、古典時代の資本主義において、消費市場需要に対応して規格化された大量生産と低価格化された堅牢な大衆車を普及されるという「生産というシステムの王者」であるフォードの時代でもあった。しかし、この方法は、自ら市場を飽和させてしまい、恐慌を生み出すといった古典的資本主義の限界を内包していた。

 

一方で、GMは、「自動車は見かけで売れる」という信条のもとで「デザインと広告とクレジット」という情報化の諸技法によって車をファッション商品に変え、買い替え需要を開発するという仕方を発明したことによって、市場を「無限化」したのだと見田は指摘する。つまり、「情報化/消費化資本主義」というのは、情報による消費の自己創出すなわち消費市場を自ら作り出すというシステムの発明によって、かつて「資本主義の矛盾」と呼ばれた恐慌の必然性を克服し、社会主義との競合に勝ち抜き、20世紀後半30年あまりの未曽有の物質的繁栄を実現したシステムだというのである。

 

しかし見田は、情報化/消費化資本主義の範型でもあったGMが2008年のサブプライムローンの問題を契機として突然の危機と暗転を迎え、人間の少なくとも物質的な高度成長期の「究極の形態」であるこの資本主義システムの「限界」を露呈することとなったというのである。それはなぜかというと、情報化/消費化資本主義の発明により、消費の無限拡大と生産の無限拡大の空間を開くことで資本主義の矛盾をみごとに克服することに成功したのだが、この「無限」に成長する生産=消費のシステムは、その生産の起点においても消費の末端においても、資源の無限の開発=採取を前提とし環境廃棄物の無限の排出を帰結するシステムであるからである。

 

資源や環境は現実には有限であるが、情報化/消費化資本主義では、有限性に到達しても、資源を「域外」から調達し、廃棄物を海洋や大気圏を含む「域外」に排出することをとおして、環境容量をもう一度無限化することができたのである。しかし、このグローバルなシステムは、グローバルであるがゆえに、もういちど「最終的な」有限性を露呈することとなったのだと見田は論ずる。グローバル・システムは球のシステムであるから、どこまでいっても障壁はなく無限に見えるが、それでも1つの閉域でであって地球に域外はないのだというのである。

 

つまり、見田によれば、グローバル・システムとは、無限を追求することをとおして立証してしまった有限性に他ならない。サブプライムローン問題に端を発する2008年の「GM危機」は、 情報化に情報化を重ねることによって構築される虚構の「無限性」が、現実の「有限性」との接点を破綻点として一気に解体するという構図を見ることができたわけで、1929年の世界恐慌ほどには悲惨な光景を生まなかったにせよ、ほんとうはもっと大きな目盛の歴史の転換の開始を告げる年として後世は記憶するだろうと見田は指摘する。

文献

見田宗介 2017「社会学入門: 人間と社会の未来(改訂版)」(岩波新書)

アンプロダクティブタイム(=何もしない時間)はなぜ大切か

長倉(2020)は、アンプロダクティブタイム(=何もしない時間)をどれだけ持つかが人生にとって非常に大事なのだと主張する。長倉によれば、アンプロダクティブタイムをたくさん生み出すために、プロダクティブタイムの質を高め、全力で時短を進めるべきなのだといっても過言でない。では、なぜアンプロダクティブタイムが重要なのか。

 

まずいえることは、プロダクティブタイムを磨いて生産性を高めても、それで人生が変わることはないということだ。過去の延長線上の人生が加速するだけだからである。そして、アンプロダクティブタイムは一見すると無駄なことに見えるが、人生には無駄そうに見える経験が活きたりする。よって、以下の長倉の説明のとおり、アンプロダクティブタイムでの経験が実は人生を実り豊かにするといえるのである。

 

長倉が主張するアンプロダクティブタイムが重要な理由の1つ目は、何もしない(=休む)ことがメンタルに良いということである。2つ目は、アンプロダクティブタイムを持つことで、1つのことを長く続けることができ、続けることが成果につながるのだから、過度なプレッシャーをかけることなく成果が出せるということである。

 

3つ目は、生活の中に「空白」や「余白」持つことで、いろいろなものが入る余地が生まれる、すなわち視野が広がるということである。人生は偶然でできているので、「余白」は、人生を面白くする「偶然」をたくさんもたらしてくれるわけである。4つ目は、視野が広がり、あらゆる情報が入ってくる結果、クリエイティブになれるということである。

 

5つ目は、やりたいことが見つかるということである。視野が狭ければ「やりたいこと」に出会う可能性も低くなるが、視野が広がることで「何もやらなくてもいいのに、やりたくなるもの」が見つかるというわけである。そして6つ目が、視野が広がり、ユニークになれば、いろんな人から誘わえるようになるし、誘いを受ける時間的余裕もあるため、圧倒的に出会いが増えるということである。長倉は、「出会い」で人生が決まるという。

 

要するに、生産性にこだわるほど、人は疲弊し、どんどん視野が狭くなるのと反対に、アンプロダクティブタイムを増やすことで、人生が豊かになっていくと長倉はいうのである。

文献

長倉顕太 2020「「やりたいこと」が見つかる時間編集術 「4つの資産」と「2つの時間」を使って人生を変える」あさ出版

 

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