「経験論」を基盤とする英米哲学の系譜

一ノ瀬(2016)は、英語圏の哲学的系譜すなわち英米哲学の諸潮流は「経験」を基盤に据えるという発想に導かれているとの視点から英米哲学史を概説している。一ノ瀬によれば、経験論における「経験的」とは、「努力し試みることの中において」という意味である。そこには。「知ること」と「行うこと」すなわち知識と行為とは決して峻別されることなく滑らかに連続した仕方で捉えられるものであり、努力して試みることは進展し続けるプロセスであるがゆえに「程度」を許容し計量化を志向してきたという。このような視点から、英米哲学の系譜を、イギリス経験論から始め、その発展形としての功利主義分析哲学プラグマティズム、正義論、自然主義ベイズ主義といった流れで説明するのである。

 

まず出発点として、ベーコン、ホッブズといった中世のイギリス経験論から始め、経験論の創始者といってもよいロックの哲学、そしてバークリ、ヒュームの認識論や因果論を経て、ベンサムやミルの功利主義を説明する。認識論や因果論では、人はいかにして知識や観念を獲得するのか、どのようにして世界を認識するのかといった議論が中心となっていたが、経験論の流れを汲む功利主義では「何が幸福であるか」を知ろうと努力する試みを本質的に含み、最大多数の最大幸福といったように、程度を許容し計量化を志向すると一ノ瀬は説く。そして、ミルの時代から徐々に勃興して、20世紀以降の分析哲学の潮流を形成する基盤となる「論理実証主義」や「言語行為論」が説明される。経験論の流れを汲みつつも、基本ツールとして論理学を装備するようになったのが分析哲学である。

 

論理実証主義は、マッハやブレンターノの認識論によって醸成された経験論的な傾向と、哲学の問題のすべては言語の問題だとするフレーゲラッセル、ヴィトゲンシュタインなどが促した「言語論的転回」の両方の要素が融合したもので、哲学的に有意味な命題とは、経験から独立した論理的に妥当な分析命題と、経験に基づいた事実についての総合命題の2つしかないと考える。つまり、論理実証主義は「論理」と「経験」を有意味性の源泉として認めているのだと一ノ瀬は解説している。中でも言語分析は、論理実証主義からオースティンの行為遂行的発言の分析などを発端とする言語行為論に移り、言語現象を知識と行為の融合形として扱う、すなわち言語現象を経験論的に読み解く道筋へとつながったのだという。

 

次に、パースの哲学に始まるアメリカ固有の哲学というべき潮流としてのプラグマティズムが説明される。プラグマはギリシア語で「行為・行動」の意味であり、本質的に「観念・概念」と「行動に対する影響」との間の因果関係に依拠した思想であることから、イギリス経験論や功利主義の原着想と連続しており、発展形とみなせると一ノ瀬は論じる。プラグマティズムは、ジェイムズやパースの哲学の後、デューイによってある水準まで到達し、ローティらによるネオ・プラグマティズムにつながっていったが、その中で、アブダクションの思想や真理論に拡張され、さらに、ロールズの正義論のように、倫理学・政治哲学にも波及していったという。

 

さて、現代哲学に目を向けると、もともと経験論では経験に由来する知識を前提としてきたが、これが現代の認識論や科学哲学において、とりわけ帰納法に伴う様々な根本的な問題の指摘につながったと一ノ瀬はいう。例えば、ヘンペルによって帰納法と論理学の関連から指摘された問題である「ヘンペルのカラス」、グッドマンによって提議された「グルーのパラドクス」、ポパーの「反証可能性」の議論とハンソンによって提議された「観察の理論負荷性」、クーンの「パラダイム論」などが挙げられる。そして21世紀の今日では、科学哲学の関心が「生物学の哲学」に大きく移っていると一ノ瀬は指摘する。その理由は、認識や倫理といった哲学の基本問題が、生物としての私たち人間にかかわる営みであるからである。これは、経験的に生物現象を観察するという事態の意義をどう捉えるかの問題であり、帰納法の問題を端緒として展開されてきた分析哲学的な知識論が、科学哲学の興隆を経てついには生物の問題へと収斂してきたのだと一ノ瀬はいうのである。

 

次に解説されるのが、現代分析哲学において認識論から倫理学にまたがって様々な形で展開されている「自然主義」の興隆である。これは、クワインによる「自然化された認識論」を端緒とする。クワインによるホーリズム全体論)では、私たちの知識や信念の体系は全体として「人工の構築物」であり神話であるとする。科学は単に他の神話よりも効率のよい神話であり未来を予測するための道具にすぎないというかたちでプラグマティズムへの強い支持を打ち出している。よってクワインは、私たちが事実として、どういう証拠からどういう理論や知識へ至るのかを「自然科学的」に探求する「自然化された認識論」もしくは「自然主義的認識論」を提唱したという。つまり、知識も自然現象であり、自然科学的に探究されるべきだということである。この考え方は、デイヴィッドソンによる行為の因果説や心の哲学につながり、それが、自由と責任の問題や倫理学の自然化にもつながっていったという。

 

最後に、現代分析哲学における認識の不確実性についての活発な議論が紹介される。これは、量子力学での不確定性原理などの影響を受けたものでもあるが、不確実性は「どの程度」という量的測定ともなじむ概念であり、計量化への志向性という意味での経験論の本筋に直結した思想動向だと一ノ瀬は指摘する。ここで不確実性として論じられている要素には「確率」と「曖昧性」とにかかわる問題圏に分けられる。確率についての議論には、例えば、原因と結果の間に、因果的必然性という概念に代えて確率的関係性を読み込むという議論がある。ただ、この確率的因果の考え方が完璧な説得力を持っているわけではない事例として、シンプソンのパラドクスが提唱されたりしている。曖昧性に潜む問題としては、ソライティーズ・パラドクスが取り上げられている。そして、功利主義分析哲学が融合した思想で、経験論的な哲学の今日的な姿でもあるベイズ主義が取りあげられている。

 

一ノ瀬の考えでは、経験論的発想を共有する功利主義分析哲学の融合は、究極的には因果性の概念へと収斂してくる。こうした経験論的な文脈で因果性に焦点を合わせることの視点は、経験論的発想が「知ること」と「行うこと」の連続性を起点とする思考様式である限り、「知ること」と「行うこと」の起点である「人格(パーソン)」へと回帰してくるはずである。「人格」とは責任帰属のありかであり、原因概念はもともと責任概念と同根である。経験論はこうして「人格」の問題を遠巻きにめぐりながら、巨大な渦のようなものとして、らせん状に進展していくのだと一ノ瀬は主張するのである。 

文献

一ノ瀬正樹 2016「英米哲学史講義」 (ちくま学芸文庫)

デジタル革命がもたらすポスト人間社会

現代はデジタル革命が進行している。石田(2020)は、自身が構築を進める「新記号論」の立場から、デジタル革命が進むことにより、アナログ的な認識を担う意識的主体としての「人間」が、デジタルな記号を演算処理する計算論的主体である「ポスト人間」に席を譲ろうとしているのだと指摘する。つまり、人間たちの生がサイバースペースの計算論的プロセスの中に組み込まれ(人間がヴァーチャル化されたうえで記号列に書き換えられ)、自らの分身として「ヴァーチャルな主体」(計算論的にシミュレートされた人間の意識)を影のように従えて生きるようになるというのである。どういうことなのか、もう少しかみ砕いて理解してみよう。

 

デジタル技術やそれによって可能となったサイバースペースの特徴は、イメージ、テキスト、音声などあらゆるものがコンピュータを通して入力されると、いったん二進法の人工記号列に書き換えられたうえで高速演算の対象となり、記号として合成されるところにあることを石田は示唆する。そういった意味で、サイバースペースは記号からのみ成る「記号空間」といってもよい。それまでアナログ的にしか処理できなかったものを含め、世界のデータのすべてがデジタル技術を通して0か1に書き換えられるようになった。ということは、すべてのデータが数学的に演算可能になるということでもある。しかもそれは人間が認識できないほど高速に行われ、さまざまな記号が合成可能となる。いってみれば、デジタル技術は、文字であろうと、イメージであろうと、音声であろうと、あらゆる種類の記号を一括して処理し、全世界の人々に一瞬のうちに伝え、それらの記号を自在に蓄積・変形・合成する技術なのである。

 

つまり、石田によれば、コンピュータによって媒介された人工の記号空間(=サイバースペース)は、世界のすべての事象を記号として捉え、記号操作によってすべてを扱う。このようなデジタルな記号は、二進法指数による原理に基づいた記号であり、例えばアナログ記号が指し示すような現実の「指向対象」との結びつきを失い、記号のシステムとの関係においてのみ定義され、純粋に数学的に定義された形式的差異のシステムによって生成されるものとなる。アナログ記号(アナロジック[類似している]記号)の場合、類似性の関係や接触関係など、なんらかの結びつきにおいて指向対象と関連づけられている限りにおいて成立する。一方、デジタル記号の場合、記号自身の固有な法則性のみに基づいて成立するわけである。

 

サイバースペースは、宇宙の事象のすべてをデジタルな人工記号列に変換したうえで、人間に読み取ることが可能な自然記号を生成することによって生み出されている。つまり、コンピュータを通してサイバースペースに入力されたどのような記号も、いったん対象との参照関係、書き手や話し手との指標的な結びつきから切り離されて、潜勢的な変形可能性の中に還元される。入力された記号自体が、人工記号列となってヴァーチャル化する。人工的に合成された記号は、今度は、合成された自然記号として、指向対象を人工的につくりだすことになる。つまり、すべての色やかたちは、二進法の人工記号列によって記述可能となり、どのような色やかたちも生成できるようになる。その結果、どこにもいない人物の顔、存在しない文字、誰のものでもないテキスト、存在しない声、誰のものでもない語りなどを、人工的に合成された記号によって生成することができるようになったと石田は解説する。アナログ記号の世界では、指向対象すなわち「現実」として存在したものは、デジタル技術が可能にする自在な記号の合成によってシミュレートされるものへと位相を変えていくのである。

 

では、これまで見てきたようなデジタル技術やサイバースペースの進展とともに生きる人間はどのように変容していくのか。石田によれば、サイバースペースでは空間が現実空間とは異なった成立をしており、ユーザーの存在も、分身や化身(アヴァター)として組織されることが可能であり、身体感覚さえもが合成されうる。現実空間におけるユーザーの「いま、ここ」が、インターフェースを通してサイバースペースのどこでもない場所に接続し、感覚と記号を生み出す超高速度の演算によって、人間にとっての空間や時間、身体、感覚、自己像までも情報技術によって大幅に書き換えられる。つまり、ユーザーの精神も、計算論的プロセスと相同化し、身体をヴァーチャル・リアリティの経験と直接リンクされる。デジタル技術による人工空間に、人間の精神と身体がともに没入していくわけである。

 

石田は、デジタル技術やサイバースペースの進展によって、「人間」という形象において統合されていた世界の経験とそれに意味を与える表象作用との関係が、もはや「人間」という統一体を経由しなくなっているのではないかという。「人間」という世界の経験の統合形式が変わり、人間が働きかける経験の領域であった自然、経験の源としての生命が、プログラムに書き換えられる。事物や現象は次々とヴァーチャルな計算論的空間の中に転位され、人間のアヴァター化が進み、デジタルな記号列を演算処理する計算論的主体である「ポスト人間」を生き始めているのではないかというのである。

文献

石田英敬 2020「記号論講義 ――日常生活批判のためのレッスン」(ちくま学芸文庫)

カントはなぜ(純粋)理性を批判するのか

西(2020)は、カントの『純粋理性批判』を、哲学史上最も難解な著作のひとつであるが古今数多の哲学書の中でも五指に入る重要な著作だと指摘しつつも、そのエッセンスを分かりやすく説明しようと努めている。西によれば、カントの『純粋理性批判』は、人間がそなえる「理性」の能力とその限界を明らかにし、近代哲学が直面していた難問に体系的な答えを示した点で、哲学の根本を揺るがすほどの決定的なインパクトを与えたものである。カントのいう理性は、広義には感覚を含む人間の認識能力一般であり、狭義では物事を推理する能力を指す。「純粋理性」の「純粋」とは、経験から得た知識を含んでいないという意味である。では、カントはこの著者で理性の何を批判し、何を明らかにしたのだろうか。

 

カントの純粋理性批判での課題は、1)自然科学の知はなぜ客観的に共有することができるのか、2)なぜ人間の理性は究極真理を求めて底なし沼にはまってしまうのか(不死なる魂や神の存在など答えが出ない領域の議論)、3)よく生きるとはどういうことか、であった。これらの課題とその答えを理解するには、まずカントが提示した認識論すなわち「人間はどのように事物を認識するのか」を理解する必要がある。カントは、人間の認識の基本構造を明確にすることによって、きちんとした根拠によって共有しうる知の範囲はどこまでで、そこからはそれを逸脱するので共有できる答えが出ないことを示そうとしたのである。つまり、どのような知識であれば合理性をもって共有しうるのか、いかなる仕組みで共有が可能になるのかに答えようとしたわけである。

 

西によれば、カントは、対象の真の姿である「物自体」は認識できないと考え、人間が認識しているのは、それぞれの主観(心)に映った像であると主張した。よって、主観が主観の外に出て客観世界そのもの(物自体)と一致することは不可能である。しかしカントは、どの主観も一定の共通規格をもっている(共通のメガネをかけている)から、世界について皆が共有しうる認識は成り立つと論じた。その共通規格(メガネ)は、感性+悟性の二重構造になっている。人間が有する感性は、空間と時間という枠組みをアプリオリ(生得的)に備えており、感覚器官を通じて物自体から受け取った多様な感覚を、空間・時間という枠組みによって位置づけて「直観」をつくる。そして悟性は、直感された漠然としたイメージを、経験概念や純粋(アプリオリな)概念を用いて整理することによって明確な判断を作り出す。

 

生得的に人間に備わっている感性や悟性によって生み出される「アプリオリな総合判断」は、どんな人にも共通な「認識の際に働く原則」に基づくから、それが数学や自然科学の土台になっているとカントは論じるのである。そこには、数の概念や因果律が含まれる。このように、空間と時間という枠組みのなかで与えられる直観と概念が結びついた認識は、客観的な認識といえるわけだが、カントは、直観できる世界を離れ、どんどん暴走していく思考のエンジンとして「理性」の働きをとらえた。感性が空間・時間を伴う「直観」をもたらし、悟性が「判断」を作り出すのに対し、カントがいう理性は「推論」という働きを持っている。理性による推論は直観に縛られないので、暴走して、答えの出ない「究極真理の探究」に向かってしまうとカントはいうのである。

 

カントによれば「宇宙は無限か、有限か」「魂は不死か」「神は存在するのか」といった問いは、人間が持つ共通規格によって認識できる現象界を超えてしまっているので、どんなに考えても答えが出ない。しかし理性は、推論に推論を重ねるあげく、現象界から逸脱してしまい、答えの出ないことを求めて暴走してしまうというのである。なぜか。それは、まず、理性が「完全性」を求めるからである。理性による推論は、世界全体を完結した完全なものとしてつかもうとする。世界全体がつかめると、そこに「自分」や「現在」を位置付けることができて安心できるからである。また、理性は、限りなく問い続けることで真理に近づこうとする探求心を有している。つまり、理性は「全体を知って安心したい」「もっともっと問い続けたい」という性質を持っており、「究極的な完全なもの」として「理念」を作ろうとするというのである。

 

西の解説によれば、カントは、理念は「探求の目標」として人間に課されたものだと述べ、究極の真理にたどり着くことは永遠にないけれど、人間はそこを目指して可能な限り探求しなくてはならないと説く。そして、その働きがもっとも有効なものとして発揮されるのが、実は認識や理論の領域ではなく、行為(道徳)の領域だとカントはいうのである。すなわち、「完全なもの=理念」を思い描く理性は、認識の面では実現しないが、人が実践(行為)するとき、理性は「完全な道徳的世界」という「実践的理念」にもとづいて、それをそのまま実現するよう「~すべし」と命令してくるのだという。カントは、道徳的に生きることを最高の生き方とするのみならず、道徳的に生きることに人間の自由があるといっていると西は解説する。その理由は、人間の欲望や感情といった傾向性に受動的な感性に対して、それを正しい行為かどうかを判断し、コントロールしようとするのが(実践)理性だからである。

文献

西研 2020「カント『純粋理性批判』 2020年6月 (NHK100分de名著) NHK出版」

 

文化産業とリピドー経済がマルクス主義を敗北に追いやった

石田(2016)は、20世紀初めのマルクス主義者たちは、テイラーシステムを通した機械による人間の奴隷化やフォーディズムを通した労働者のプロレタリア化といった言説に代表されるように、労働と生産の体制についての優れた分析力によって、発達しつつあった資本主義に対して鋭く本質をえぐっていたと指摘する。しかし、それにもかかわらず、マルクス主義者や社会主義が20世紀を通じて敗北していった背景には、20世紀の先進資本主義のもう1つの側面である「消費を生産する」ことを説明する理論を持たなかったことにあると石田は論じる。具体的には、資本主義のうち、欲望・ハリウッド・消費といった、「文化産業の側面」を見ることでアメリカ型資本主義の覇権が決定づけられた理由がわかることを示唆する。

 

そもそも経済とは平たくいえばモノを作って売ることだが、そういった生産活動とペアになるのが消費活動である。モノを生産して売ることで資本の増殖を進めるといっても、放っておけば消費者のニーズは必ず飽和するので、消費をケアしなければモノを作り続けることができない。そのため、資本主義はある時から「消費自体を生産する」ようになったのだと石田は論じる。テイラーシステムから始まったフォーディズムが大量生産を生み出し、メディアというものを基盤技術とする文化産業が、夢や欲望を生み出すことで消費を大量生産する役割を担い、この2つのペアが20世紀の資本主義を牽引したのである。そして消費をベクトル化する技術としてマーケティングが発明されたのだと石田は指摘する 。

 

石田によれば、文化産業の基軸となったのがハリウッドである。フォーディズムは大量生産により車をできるだけ安くし、多くの消費者が車を買えるようにすることで早期の市場の飽和を打開し、大衆消費の時代を到来させることを企図していた。このような生産の合理化と大量生産化を消費的側面から支えたのが文化産業で、夢の工場とも呼ばれるハリウッドは、文字通り夢の断片を組み立て、大衆の夢を生産する。それはシネマという技術的無意識をベースとした原理で成り立っているので、無意識のうちに夢が組み立てられ、人々に欲望のシナリオを与えていく。つまり、人間の意識を大量生産する。これは社会主義ではできなかったことで、こうして中産階級の夢がハリウッドによって作り出され、この夢の工場とフォードの工場がペアになり、アメリカの資本主義が成長し、ミッキーマウスといったキャラクターによって何代にもわたって子供たちの夢が組み立てられていったのだと石田はいう。

 

石田は、モノを作る経済に対して、夢=欲望=消費をつくる経済を、フロイトにあやかって「リピドー経済」と呼ぶ。これは、フロイトが、経済の原理を無意識の心的エネルギー(リピドー)の動きに見立てたものである。そして、大衆産業社会の夢をつくることをビジネスの中心に据えたのが、ラジオ、映画、レコード、電話などの「文化産業」である。リピドー経済に働きかけることによって、アメリカの資本主義は大いに発展したのであり、リピドー経済なしに現代資本主義は成り立たないとさえいうのである。そして、20世紀のマルクス主義者は、テイラーシステムやフォーディズムでは極めて有効な批判を行ったものの、リピドー経済については批判理論を持ち合わせていなかったと石田はいう。

 

フォーディズムが、流れ作業による労働の組織化で労働を時間と動作の連続という2要素に分解し、労働を均質化・平準化することによって人間から「作るノウハウ」を奪い、人間をプロレタリア化したわけだが、映画を始めとする文化産業は、人間にできあいのライフスタイルを提示することで「生きるノウハウ」奪い、人間をプロレタリア化したのだと石田はいう。つまり、文化産業によって人々は「消費者」として手軽にいろんな夢(イメージ)を描くことができるが、これらの均質化・平準化されたイメージを無差別に受け取っているうちに、人々は自分自身でイメージをつくり、それを自分の言葉にする能力を失っていく。つまり、消費生活において、「生きるノウハウ」を文化産業に預けてしまうことになるのである。その結果、現代では、あらゆる生の場面のマニュアル化が進んでいる。

 

そして、フロイト的な集団心理学を援用し、アメリカでマーケティングという知識・技術が発達し、マーケティングが消費を作り出すことになった。マーケティングは、私たちの「心のなかに隠された市場」に働きかける技術である。例えば、企業はテレビ局から人々の脳の時間を買い、時間の関数としての人々の意識を借り切る。そこにCMを投入して人々の購買意欲を喚起する。私たちは無料で民放のテレビ番組を享受できていると思っているが、実は、民放は視聴者である私たちの脳の時間を1CMにつき数円でスポンサー企業に売却することで利益を得ているのだという理屈である。これは実際の商品を市場で販売する以前に、「意識のメタ市場(市場の市場)」、つまり商品が実際に売買する市場よりも上位に属し、市場を決定する力をもった市場に働きかける技術であり、実際の市場で商品をアピールするよりもずっと効果があるとのだと石田はいうのである。

 

つまり、ハリウッドの夢の工場と社会の無意識の欲望をエンジニアリングするマーケティングの技術が、消費を生産するという役割を担い、とりわけマーケティングが大衆の人々の消費を喚起することで、生産と消費が循環する資本主義のシステムが形成されていったわけである。つまり、放っておけば飽和してしまう市場で人々にあえて商品を買い替えさせるような技術をマーケティングが蓄積し、ハリウッドのスター・システムと連動させて販売する。すなわち、ハリウッドの「夢の工場」と社会の無意識の欲望をエンジニアリングする「マーケティング」の技術が、消費を生産するという役割を担っていく。これが20世紀のアメリカの資本主義の時代を作ったというのである。

文献

石田英敬 2016「大人のためのメディア論講義」 (ちくま新書)

資本論で読み解く「資本主義の暴力性」

斎藤(2021)は、世界中に豊かさをもたらすことを約束していた資本主義が私たちの生活や地球環境を急速に悪化させているといい、このまま資本主義に人類の未来を委ねて本当に大丈夫なのかという問題意識から、「資本主義の暴力性」に注目したかたちでマルクス資本論を解説している。例えば、現代の資本主義社会において、なぜ私たちはモノに振り回され、大事なものを失っていくのか、なぜ長時間労働や過労死がなくならないのか、なぜイノベーションや生産性の向上が「どうでもよい仕事」を増やしているのか、そしてなぜ資本主義社会は自然破壊を止められないのか、について、資本主義の暴力性の視点から説明している。

 

まず、資本主義は、社会における「富」をつぎつぎと「商品」に変化させることで社会を「商品の巨大な集まり」に変化させるため、その結果、私たちが商品に振り回されるようになったと斎藤は論じる。マルクスによれば、人間が行う「労働」とは、人間が自然との物質代謝を自らの行為によって媒介し、規制し、制御する一過程である。つまり、人間が自然に働きかけて自らの欲求を満たす過程において、自然と人間とは循環的な物質代謝の過程を形成しており、その循環のおかげで地球環境的にも人間社会的にも健全な富が形成されていくのが本来的にサスティナブルな(持続可能な)あり方であり、資本主義以前の社会では、その循環が保たれていたといえよう。

 

しかし、資本主義社会における「労働」は「商品」を生み出し、社会を巨大な商品の集まりに変えていく。その原動力は、「絶えず価値を増やしながら自己増殖していく運動」と定義される「資本」である。資本が重視する価値は、売れるかどうかの「価値」であり、私たちの暮らしに役立つという意味での「使用価値」とは別物である。価値を増やしつづけること、すなわち金儲けを延々と続けるのが「資本主義」なのだと斎藤は論じる。このような資本主義社会では、かつては誰もがアクセスできる共有財産だった「富」が、資本によって独占され、貨幣を介した交換の対象としての商品に置き換わる。商品の生産の担い手である労働者は、自らの労働力を提供するだけでなく、商品の買い手となって、資本家に市場を提供するようになる。

 

そして、使用価値とは無関係に商品が社会にあふれかえり、不況による価格の暴落など、「価値」の変動に私たちは振り回されるのだと斎藤は指摘する。暮らしに役立つ「使用価値」のためにモノを作っていた時代は、人間が「物を使っていた」わけであるが、「価値」のためにモノを作る資本主義のもとでは立場が逆転し、人間がモノに振り回され、支配されるようになるというのである。これをマルクスは「物象化」という。そして、売れるかどうかの価値のみを目的とした生産の効率化は、本当に必要な物やサービスを削り、質を低下させて、社会の富を貧しくしていくと齋藤はいう。資本主義的生産様式というのは、価値を増やし、資本を増やすことを目的とする商品生産に歪められた労働を伴うのである。

 

資本主義では、価値が主体となって、その運動が「自動化」されていく。人間も自然も、その運動に従属して、利用される存在に格下げされてしまう。資本家さえも、自動化された価値増殖運動の歯車でしかないという。そのような資本主義では、労働者が有する富である労働力を商品に閉じ込めてしまう。労働者は、生産手段から切り離され、生きていくために必要なものを生産する手立てを失い、自分自身の労働力という商品を売るしか生きる手段がない。さらに、資本主義は、共同体という富を解体してしまったので、労働者は、かつて共同体にあった相互扶助の関係性からも切り離され、自分の労働力という商品だけを頼りに必死に生きていかねばならなくなった。

 

そして労働者は、どこに自分の労働力を売るかについて自由があるがゆえに、それが逆に、自分が選んだ職場や仕事という意識を生じさせ、労働者の自発的な責任感や向上心、主体性が資本の論理に包摂されていくことになる。これが、現代の長時間労働や過労死にもつながっていると齋藤は分析する。さらに、イノベーションによる生産性向上は、価値の増殖のみならず労働者に対する支配を強化する。例えば機械化の進展で生産性が上がれば上がるほど、労働者は資本に包摂されて自律性を失い資本の奴隷になる。資本主義のもとで生産性が高まると、その過程で構想と実行が、あるいは精神的労働と肉体的労働が分断され、労働者は分業というシステムに組み込まれることで、何かをつくる生産能力も失っていく。よって、自分の労働力を「商品」として資本家に売ることでしか生活を維持する方法をなくしてしまったのだと齊藤はいう。

 

そして資本は、人間だけでなく、自然からも豊かさを一方的に吸い尽くし、その結果、人間と自然の物質代謝に取り返しのつかない亀裂を生み出す。自然からの掠奪を放置している現役世代はそのツケを将来世代に払わせ、先進国の放埓な生活は、その代償を途上国や新興国に押し付ける。斎藤はこれを「外部化」という。本来の循環過程と資本の価値増殖過程はまったく異なる論理で営まれているので、2つの過程の間に大きな乖離が生じてしまう。地球の生態環境は有限なのに資本主義は価値増殖を無限に求めるため、資本は常にコストを外部化するが、地球が有限である以上、外部も有限であるため物質代謝の亀裂は最終的には取り返しのつかないところまで深まってしまうのである。

 

齊藤によれば、ソ連崩壊後に資本主義のグローバル化が加速したことで、資本主義の暴力性によってもたらされる環境危機もグローバル化した。人間と自然の物質代謝は、本来、円を描くように営まれれる循環的な過程であるが、資本主義の暴力性は常に労働者や自然から一方的に奪い、そのコストを一方的に外部に押し付ける。その結果、商品の消費地である都市の生活は豊かになるが、地方の農村は土壌疲弊というツケを払わされ、貧しくなっていく。そして商品の恩恵を受けている都市でも、労働者は資本に強いられる長時間労働で肉体的健康を破壊されていくのである。 

文献

斎藤幸平 2021「NHK 100分 de 名著 カール・マルクス『資本論』 2021年1月」(NHK100分de名著)

 

 

誰でもリーダーシップを身に着けることができる王道とは

森岡(2020)は、リーダーシップの本質を「人を本気にさせる力」だと論じる。人々がワクワクするような未来の完成形を描き出し、それが絵空事ではなく本当に実現できそうだと信じさせる力、そしてその物語の中でその人ならではの特別な役割を演じられると相手に信じさせる力だというのである。森岡自身は、相手が演じてみたくなる物語を構想して人を巻き込んでいくストーリーテリングの能力を磨いてきたのだという。

 

では、このようなリーダーシップは一部のもって生まれた天性を持つ人にしかできない芸当なのだろうか。森岡の答えはノーである。森岡の主張は、人を動かす力としてのリーダーシップは、誰もが身に着けることができる「後天的なスキル」である。そして、その力を強くしていくほど、人生が劇的に前向きになり、意欲と興奮に満ち溢れた自分の人生を歩めるようになるというのである。では、どうすれば誰もがリーダーシップを身に着けることができるのだろうか。

 

ポイントは、リーダーシップは、本人が意識的して経験を継続することで後天的に身に着くということである。失敗してもそこから学べばリーダーシップが身についてくる。経験しなければそのような学習機会もない。要するに、リーダーシップ力の有無は、経験の違いに他ならず、トレーニングの質と量によって後天的に身に着いたかどうかという点なのである。よって、リーダーシップがある人は、その経験量が多い人、リーダーシップがない人は、その経験をしていない(する機会がなかった、しようとしなかった、あるいは怖くてできなかった)人ということなのである。

 

となると、話は簡単になってくる。森岡によれば、リーダーシップを身に着けるためにデフォルトとして必要なのが「欲」の深さである。どれだけ欲(≒夢)が強いかが、自分がリーダーシップをとることに対する恐怖感を上回ることで、意識してリーダーシップを経験しようとする原動力になるというのである。リーダーシップを身に付ければ1人では到達できない景色を見ることができる、最強スキルによる経済的リターンが手に入る、興奮と一緒の目が覚める朝が手に入るなど、いいことづくめである。

 

究極的に言えば、「素晴らしい人生を送りたい」、そのために「ある目的をどうしても実現させたい」という「欲」を強く持つことが大切なのであり、リーダーシップを身に付けることで、それが実現するということを理解すればよいのである。それが理解できれば、リーダーシップを発揮しようとしたときにうまくいかないのではないかという不安や、失敗して自分が傷つくことへの恐れや苦しさなど、大したことではなくなる。そんなことで、自分の人生を最高にするチャンスを棒に振るなんて、なんともったいないことか。

 

森岡は、人を動かす原動力となる「どうしても実現させたい目的」は、3つのWANTSで考えるのが良いとアドバイスする。1つ目は、巻き込みたい人々にとっても魅力的な目的であること、2つ目は、周囲の人々を巻き込まないと実現できない、集団としての能力を必要としている目的であること、そして3つ目は、自分自身が本気になれる目的であることである。もし、リーダーシップを志向する自分の「欲」が弱い(よって、不安や怖さが勝ってしまいリーダーシップの経験を積むことを躊躇してしまう)場合は、この3条件を満たす目的を真剣に探してみることから始めるのがよいと森岡はいう。

 

リーダーシップの経験を積み重ねることが後天的に人を動かす力を身に着ける王道であるとはいえ、リーダーシップを身に着けやすい環境を見つけてそこで泳ぐのがよいと森岡はいう。つまり、経験を通じたトレーニングには、量と質があり、質の良い環境であれば、トレーニングの効果が高まるということである。森岡によれば、その環境は3つある。1つ目は、自分の特徴を強みとして生かせる環境である。そうであれば、自分は有利な立場にあるわけだから、リーダーシップもとりやすくなる。2つ目は、「自分がやらねば!」と思いこめる環境である。周りが優秀な人ばかりだと気後れしてしまってリーダーシップをとることを躊躇してしまい、主体性の発揮を維持できない。むしろ、1点目で挙げたように自分が有利な立場にある環境で、かつ、自分が周囲からそれなりに頼りにされる環境に身を置くことがよいのである。そして3つ目は、広い視野と職責のスペースが持てる環境である。全体を見渡すことができ、かつ動ける範囲が大きいような立場に身を置くということである。全体像から視野を広く俯瞰して物事を判断する習慣がリーダーシップには必要なのである。

 

最後に、森岡の主張をシンプルにまとめると、リーダーシップは、自分自身の一度しかない人生で叶えたい夢を実現するためのスキルであり、リーダーシップを身に着ける王道は、自分が望む未来を本気で欲すること、そしてそのために本気で行動し続けることだということである。

文献

森岡毅 2020「誰もが人を動かせる! あなたの人生を変えるリーダーシップ革命 」日経BP社

 

時間は流れない、だが生命の中には時間の流れがある

橋元(2020)は、アインシュタイン相対性理論など現代物理学の知見から言えば、空間と時間は幻想だとし、かつ、時間は過去から現在、未来へと流れるものではないという。まず、相対性理論では、時間と空間は時空を構成する同一尺度(同じ単位)で捉える。ニュートン力学であれば、空間と時間は絶対的でありかつ本質的に異なるので、物質の器として固定されたユークリッド空間上を、時間とともに物体が移動すると考えることになる。しかし、時間と空間が同列に扱われる相対性理論では、時間は空間と同じものになり、モノの動きは時空上では絵として固定されてしまう。例えば、時空(ミンコフスキー空間)では「速度=距離÷時間」が意味がなくなってしまい、速度は動きを表すものではなく、(距離と時間は同じものであるため、同じ単位のものを除していることになるので)単なる数値になってしまうのである。

 

また、相対性理論では、観測事実でも確認されているとおり、時間が遅れ、空間が縮む。時間も空間も相対的であって絶対的なものではない。さらにいえば、この宇宙に客観的かつ唯一絶対な時空は存在せず、それぞれの観測者がそれぞれの時空を持っている。観測者の数だけ時空が存在する。言い換えれば、時間と空間は主観的であり幻想である。物質と時空の関係でいえば、不確定原理が示すとおり、物質(中身)と時空(器)を同時に正確に決めることができず、混然一体となっている。よって、物質が消滅して質量のない光のようなものばかりになれば、時空も消滅するのである。

 

つまり、相対性理論によれば、絶対時間とともに物体が絶対空間上を移動という発想はナンセンスであり、実際には、物体は移動せず、幻想としての時空を構成する時間軸と空間軸のそれぞれの点に対応するかたちで、それぞれの物体の位置が絵の配列として固定されているに過ぎない。つまり物体は、時間軸と空間軸からなる時空では配列という静止した状態で存在しているにすぎない。ではなぜこれを動いている、別の言い方をすれば、時間が流れている(よって動く)と感じられるのか。橋元によれば、これを理解するのに有用なのが「パラパラ漫画」の例えである。パラパラ漫画も、1コマ1コマ、静止画像があるだけで、画像は決して動かない。しかし、パラパラめくれば動いて見える。映画も同じである。時空上の物体も同じである。それぞれの時間軸上に静止した物体があるにすぎないのだが、生きている私たちがそれを知覚する際、記憶の働きによって動いて見える(すなわち時間が流れる)に過ぎないというわけである。つまり、時間が流れるように知覚されるのは、生命体が持つ記憶という働きのなせる業なのではないかという視点が出てくる。

 

現代物理学の視点から言えば、物理的な時間は流れないということに落ち着きそうである。だが、話はここで終わらない。その鍵となるのが、時間に矢がある(過去から現在、未来へという方向性があり、不可逆である)とする熱力学や散逸構造理論の発展である。エントロピーを用いた説明を行うこれらの理論からは、無数の分子の集団においては不可逆過程が観察され、時間軸に一方向しかないように見える。ただ、ここで押さえておくべきポイントは、これらの現象は、素粒子や分子が無数に存在するマクロの現象から導き出される見解にすぎないということである。つまり、時間の方向性や不可逆過程の話は、素粒子や分子が集まった全体を想定してのみ可能になる話なので、それらを構成する単一の素粒子や分子のレベルで見るならば、やはり時間の方向性も、時間の流れもないと言わざるを得ない。

 

素粒子や分子単体から見たら時間は流れないのに、これらが無数に集まったマクロの現象においては、時間に方向性がある(多くの現象が不可逆である)ように考えられるという見解は、時間の流れというのは実は生命体の内部にあるのだというロジックにつながる糸口を提供する。橋元によれば、生命体とは、エントロピー増大の法則に抗う「生きようとする意志」をもった分子機械であると考えられる。つまり、生命体というシステムは素粒子や分子が集まったマクロな物理現象として捉えることができ、そのようなシステムが、同じくマクロな物理法則(エントロピー増大の法則)に抵抗するかたちで存在していると捉えるならば、素粒子や分子単一ではありえなかった「時間の方向性」が立ち現れてくる。

 

橋元は、 生きる意志を持つということは、時間の流れを創ることと同義であるという仮説を提示する。マクロの世界で初めて登場する時間の方向性(エントロピー増大の法則)は、物理学的には静止した時間の矢にすぎないが、この時間の矢に乗って、動きすなわち時間の流れを生み出すのは生きた細胞の内部で生まれる情報のサイクルではないだろうかというのである。例えば、1つの細胞の内部において、外界の情報を処理する情報伝達のサイクルが完成したとき、細胞は記憶を持ち、そのことによりモノの動きを感知し、やがて外界の動きから時間の流れを主観的に自覚するようになり、主体としての「自分」の内部時間の流れも感じるようになる。そうすることで生き延びていく能力を獲得したというのである。

 

 エントロピー増大の向きとは、秩序が壊れていく向きである。壊れる秩序に逆らって、その秩序を保とうとするのが生命である。いわば、生命は逆境に打ち勝つ意志である。そのような意志すなわち生命体内部から、打ち勝つ対象としての外界から情報を獲得して処理する努力、過程において、不可逆過程の認識のあり方としての「時間の流れ」が生み出されるというわけである。

文献

橋元淳一郎 2020「空間は実在するか」 (インターナショナル新書)