幸福であること=瞬間に生きること

私たちは、慌ただしい現代社会で「いつかどこか」のために日々をやり過ごしていると古東(2011)は指摘し、私達にとってもっとも大切なのは「いまこの瞬間を生きること」すなわち「<今ここ>の充溢をかみしめる、<今ここ>に佇む」ことだという。これは幸福に生きることでもある。なぜ「瞬間」が大切なのか。古東は「いまこの瞬間の中にすべてがある。少なくとも、大切なものは全部そろっている。人生の意味も、美も生命も愛も永遠も、なんなら神さえも」「だから瞬間を生きよう」「先のことを想わず、今ここの輝きのなかにいよう」と語りかける。瞬間を生きるそのさなかに、生命の息吹に満たされて、永遠の瞬間の甘露を味わうそのときに、死んでもいいと思えるほどの陶酔と至高の経験を味わうことは、事実であるともいう。


「いまこの瞬間の中にすべてがある」とはどういうことか。古東によれば、それは、「瞬間」が「生の純粋形」「真(リアル)の生」「いのち息吹く存在様式」であるということだ。すなわち「今生きているこの瞬間」こそ、光あふれる生命の場でありすべてだ。であるから、「いまこの瞬間を生きること」は、「生命の息吹に触れること」であり「いのち息吹くこの愉悦の瞬間体験」である。瞬間を生き生命を息吹かせるとき、私達はものごと(存在者)の不変の姿にいる。瞬間を生きるがゆえに、生命の息吹に触れ、永遠を生きるというわけである。


瞬間を生きることが、永遠を生きることでもあるとはどういうことか。古東によれば、世界は無常。森羅万象は、刻一刻に変異し変化し生滅してやまない。生の純粋形も同じ。生は片時も留まることがない。いのち息吹かせているその刻一刻に成りかわり、移りゆき、変容してやまない。つまり、この世この生は、不断の創造と不断の崩壊のなかに生滅する。よって「存在する」とは、無限の動きそのものに他ならないわけである。ものは刻一刻に念々起滅を繰り返す。そして、「時」は、無常生起する生命や存在そのものであるゆえ、逆説的であるが、瞬間こそ永遠、瞬間という「時」だから永遠だというわけである。つまり、「瞬間」の存在論的意義は永劫に変わらず、かつその意味は限りなく深く豊麗である。この存在意味の一義性と深さと豊麗さは、生死の不安を圧倒し、時の無常性(儚さ、死の定め)にまつわる問題を霧散させると古東はいう。


瞬間に生きることは、幸福であることでもある。なぜか。古東はこう説明する。人間はみな、手みやげ1つ持たずこの世に生まれてきた。さずかったのは、生命だけ。生命1つを息吹かせながら、この世に登場した。死ぬとき携えて逝くのも、このいのちだけ。だから、私達がこの世に持ち込んだものがあるとすれば、唯一、剥き出しのこの生ばかりである。生まれて生きて死ぬ。そして「瞬間」に生きれば、「今この瞬間に生きて在る」ことを実感する。在ることの、極度な稀有さ、在りえなさを、実感するのである。神秘的で、素晴らしく、歓ばしい「存在神秘」「存在驚愕」である。「万物はいささかも必然的な理由や目的もないのに在る」ことを悟り、今ここに「在ること」の実感だけですでに至高の状態になれる。


そのような幸福を味わえる「永遠の瞬間」は、非日常的な、特別なものではないと古東はいう。永遠の瞬間といっても、じつはかつて誰しもよく知っていた時のすがたのことである。例えば、幼い頃、時間のことなど知らず、今ここの瞬間に生きていたはずだ。その時その場の光景に身を浸し、刻一刻の瞬間だけを深々と生きていたはずだ。幼い日々、夢中で生きていた濃密な時のすがた(原初の時間)を想い起こすだけのこと。慌しい生活に追われ、忘れていただけのこと。もともとそこに生まれ、じつはいつも生きている原初の時間に、赤子のように身を開くだけのこと。つまり、だれのどんな生活空間のなかにも、変哲のない日常の一瞬にも、幸福がある。だから、だれもがどこでつねに幸福になることができるというのである。


けれども、日々をやり過ごしてしまう慌しい現代社会において、瞬間に生きることは、難しいことではないのか。ここでは、古東が示唆する方法の中から3つ紹介しよう。1つ目は、「芸術」とのふれあいである。芸術とは、生命のいぶきを感じとれるようにする工夫であり装置である。芸術は「瞬間=永遠」を垂直に切り取る。そういった芸術作品に触れると感動(歓び)が溢れる。それは、芸術が、「瞬間=生命の型」を顕示することで、生命の息吹をありありと感じさせつつ、同時に鑑賞者の生命をも息吹かせる術であるからである。例えば、印象派と呼ばれる画家による絵画は、目前の瞬間の変哲のない光景に、永遠の幸福を見出す。どのような瞬間の印象もその独自な様相において、いのちの真実を告げており、その生命の脈動を発露させるよう画面を構成していく。


そもそも、いのち息吹くとき、生命体は躍動し悦びを感じるようにできている。いのち息吹くことが生命体の究極目的であり、自然・本性だからである。私達の多くが生命の息吹に触れることなき日常を過ごす中、人生でなくてはならぬ貴重で悦ばしい、宝物のような活力を取り戻す術が芸術である。つまり、芸術は、この瞬間刹那の豊穣さに撃たれることである。


2つめの方法は、「何もしないこと」である。時には「なにもしないこと」が、よほどたくさんのことをする。瞬間を生きるからである。なにもしないという仕方で、ただ在るだけ。あたりの光景にひたすら目をそそぐだけ。周囲の音響に浸るだけ、「今ここ」に目覚めて生きていること(なにもしないこと)が、どんなに稠密な時のひとこまであるか。なにもしなくても、十分みちたりた時が流れる。3つ目の方法は、「静かにゆっくり呼吸をしてみること」である。吸い込んだり、吐き出しあり、何万回も繰り返してきた呼吸。いつかこれが止まるときがくる。吸い込んだ息をそのままに引き取る。息を引き取る瞬間がくる。そんな最期の瞬間だと思って深呼吸してみたらいい。すっかり現在時のこの瞬間だけが、浮き彫りになってくる。今この瞬間を呼吸するようになる。あたりの光景が異様に輝いてくる。


このように、古東は、「今後の抱負を考えるより、その日のこと、今この瞬間のことを大事にする生き方」の重要性を説くのである。現代社会を生きる私たちは、瞬間を忘れて生きてしまう。瞬間のかがやきを目撃することなく生きてしまう。これは生きているといえるのか。この瞬間、瞬間を大切に生きていると、つぎにやるべきことが自然と自分のところにやってくる。だれしも、先行きのことは不安だから、今現在の愉悦を我慢し、明日や将来や老後に備えようとする。だが、今この現在のこの一瞬を誠実に丁寧に味わって生きてみると、ゆたかな明日も充実した来年も、ちゃんとついてくる。必要なものは必要な時期にやってくる。それはまるで至高な何か(神や仏や天地自然のような)に身をゆだねてお任せする感じだというのである。