石原(2009)は「国語は道徳教育だ」という。そして、道徳とは「パラダイム」である。つまり、この社会に「道徳として絶対的に正しい」というものはなく、その時代に「常識」だとされていること、すなわちその時代のパラダイムが「正しい」ということになる。「常識」は絶対的な正義とかではなく、無自覚に共有されているパラダイムである。時代が変わり、パラダイムが変われば、何が正しいかも変わるというのである。その時代のパラダイム(=常識)を身につけていれば「みんなと同じ」になることができ、この「みんなと同じ」を教え込むのが「教育」である。よって、受験国語では現在通用しているパラダイムを身につけているかどうかが問われる。そしてこれこそが「道徳教育」だと石原はいうのである。その時代における「良い子」になってほしいというのが教育であり、それを試すのが受験である。よって受験で高得点をとるためには「良い子になったふり」をすればよい。
このことから、石原は、受験国語が得意になる方法は「みんなと同じ」を身につけることだという。例えば、受験国語の小説問題は、「こういうときは、みんなはこう思うのだろう」ということがわかっている人が高得点をとるゲームである。小説問題の選択肢には、絶対的な「正解」がない場合が多く、「みんなはどう思うのか」という「常識」が正解になるという。つまり、受験国語の小説問題は、感性の「常識度」を測っているにすぎないと石原は指摘する。「みんなと同じ気持ち」になれるかどうかが試されている。そして受験国語の小説では、その「気持ち」は登場人物の内面に隠されているのではなく、文字の中に気持ちが表れている。さらにいうと、受験国語では「気持ち」は出来事の結果として表れるから、「気持ち」の問題に答えるにはその前後の文脈をまとめる力があればよいということになる。
また、受験小説に登場する親や教師や大人は必ず「良い親」「良い教師」「良い大人」であり、主人公は「良い子」である。本来、小説というのは、自分の感性に頼って自由に読んで構わないわけだが、こと受験国語に限っていえば、自分にとって「良い」こと、もしくは自分の感性を基準にして解答してはダメで、世間一般で「良い」と考えられている親、教師、大人、子供を基準にして読むことによって、答えを1つに決めることが求められるのである。
受験国語の評論文についても、その文章を成立させている「パラダイム」を見抜くことが、得意になる方法だという。石原によれば、一般的に評論文は「ふつう」を疑うために書かれるものである。そこで多くの評論文では、多くの人が「ふつう」だと思っていることをが実はちっとも「ふつう」ではないと書いてみせる。正しいけれども当たり前のことを書いたのでは評論としての商品価値はないからである。であるから、評論文が書ける人は「ふつう」がよくわかっていて、しかし「ふつう」ではないことが書ける人である。よって、評論をよりよくよくためには「ふつう」がよくわかっていなければならないと石原は解説する。つまり、僕たちは自分がいまどんなパラダイムの中で生きているのかを知っておかねばならないというのである。
以上のポイントを踏まえ、受験国語の場合は、小説にせよ評論にせよ「物語の型」や「論理展開の型」のようなものをひとつかみにして「要約文」を書けるようにすること(そしてその背後にあるパラダイムを見抜くこと)、消去法に慣れること、そしてこの世界で生きている自分を見る三人目の自分を手に入れることだと石原はいうのである。