人生に最も役立つ「高校国語教科書」

出口(2015)は、高校の国語教科書は名作の宝庫であると同時に、その深い内容を高校生が理解するのは至難の業であるという。よって、高校国語教科書は大人がやり直してこそ真に役立つのだと主張する。そもそも、国語ほど実際に役立つものはないと出口はいう。おそらくどんな科目よりも、国語で得た学力は生涯役にはずだというのである。それは何故かといえば、誰もが文章を読み、考え、話し、書くといったささやかな繰り返しの中で成長し、教養を身につけ、コミュニケーションをし、その結果として大きな仕事を成し遂げることができる。そしてその中核に「国語力」があるからである。


高校の国語教科書は名文の宝庫であって日本語の力を鍛え、読解力や記述力、会話力を身につけ、思考力や感性を磨き上げるのに適した教材だと出口はいう。しかし、国語の教科書には、相反する方向性をもった二種類の教材が混ざっているため、教える側も教えられる側も無自覚に同じ国語の教材として扱ってしまい、その結果、国語は役立たないといった誤解や混乱を生じさせているのではないかという。国語教科書の教材の1つ目は、文章を論理的に読むことにより、考える力をつけるもので、評論が中心である。筆者の伝えたいことは何で、それをどのような論理で説明しているのかを読み取るものである。文章を論理的に読むことができるようになれば、論理的な話し方、論理的な考え方、論理的な文章の書き方が分かってくるのである。また、優れた評論を理解することによって、私たちが今暮らしている現代社会を新たな角度から捉えなおすことも可能となる。もう1つの教材は、人生や世の中の深淵と直に向き合わせるものであり、文学や哲学、いわゆる西洋でいう教養につながるものである。こちらは、答えのない深い問題をどこまでも凝視し続けるものである。


出口によれば、高校の国語教科書の評論とは、筆者の主張を不特定多数の読者に向かって論理で説明した文章のことである。よって、筆者の立てた筋道、すなわち論理を負うことによって、正確に筆者の主張を読み取ることが重要である。出口は、山崎正和「水の東西」、清岡卓行「失われた両腕」、丸山眞男「「である」ことと「する」こと」などを題材として取り上げ、「イコールの関係」「対立関係」「因果関係」という論理の3つの基本を用いた正しい意読解の仕方を解説する。まず、評論においては、具体と抽象が論理の鍵である。論理力を鍛えるときは、具体と抽象を意識することが大切だというわけである。評論においては、筆者の主張(抽象)と、具体例・体験など(具体)が、「イコールの関係」として展開される。筆者が自分の主張を伝えるときに、裏付けとなる証拠を列挙することで読者の注意を惹き、理解を促すのである。さらに、評論において押さえておかなければならないのが「対立関係」である。こちらは、筆者が自分の主張を伝えるときに、あえて反対のものを持ち出すことで論を展開しようとするものである。そして3つめに重要なのが「因果関係という論理展開」である。筆者が、Aという主張を前提に、次のBという主張を述べるとき、AとBの間には因果関係が成り立たなければならない。


文学作品の読解の仕方で重要なのは、いくら文学には感性が大切で人それぞれ受け取り方が違うといっても、誤読や主観的な読みの上には、どんな鑑賞も成り立たないということである。国語学習の目的は正確で深い読解力の養成にある。まずは作品を正確に、深く読解することが何よりも大切で、そうすれば、名作である限り、必ず次になんらかの感動が沸き起こってくるのだと出口は主張する。客観的に深く読解することなく、自分の狭い価値観から作品を歪めて解釈していては真の学力は身につかない。出口は、この現代の時代を捉えるためには「近代」という時代概念を深く理解することが必要だという視点から、森鷗外舞姫」、夏目漱石「こころ」、中原中也「サーカス」などの作品を題材として、私たちが現代の価値観や自分の生活感覚から文学作品を再解釈するのではなく、様々な時代状況の中で人間の心を伝えてくれる文学作品を、作者の息づかいに従って、本文を根拠にして客観的に読解し、そのうえで、作者や登場人物との対話を通して答えのないところで物事を深く考えることの重要性を説くのである。