実力主義の時代としての日本中世

相澤(2012)によれば、現行の日本史教科書では、院政後三条天皇の親政)から中世の記述が始まっている。以前は「中世は源平の争乱に始まる武士の時代」と考えられていたが、それよりも以前に中世の始まりを設定している。その理由は、朝廷による中央集権的な全国支配が機能不全に陥り、実力社会に移行したことをもって、古代から中世への転換と考えているからだという。


山川出版社の「詳説日本史」では「院政期には、私的な土地所有が展開して、院や大寺社、武士が独自の権力を形成するなど、広く権力が分化していくことになり、社会を実力で動かそうとする風潮が強まった」と書かれていることを相澤は紹介している。


実力社会の申し子ともいえる存在が武士であるという。つまり、中央集権的な地方支配が緩む中で、各地で有力農民が成長を遂げ、勢力拡大のために武装するようになったのである。上から抑えつける力がなくなり、法(律令)の通用しない一種の無法地帯を生き抜く術として武力が求められたというわけである。武士の力は、紛争解決などにも必要なものとなっていた。


相澤によれば、院政において上皇は、「律令の制約を受けない立場から、従来の法や慣習にとらわれない専制的な政治」を行ったとされる。実力社会に移行する中で、上皇のような既存の枠組みに縛られない新たな秩序の建設者が現れ、そうした上皇の下で、武士(平氏)が政権を奪取することができたのだと相澤は説明する。


そして、中世において、人々が自発的に形成した共同体や、そうした共同体による自由な運動を指す「一揆」は、物事を実力で解決しようとする風潮の高まった中世(とりわけ室町時代)を象徴するものであったと相澤はいう。中世においては一元的な権力が存在しなかったがゆえに、惣村などの自治組織が形成され、実力で要求を貫徹しようとする一揆がさまざまな階層から幅広く行われたと指摘する。


結局、実力主義が最大化したのがいわゆる戦国時代であったわけであるが、織田信長豊臣秀吉らによる天下統一を経て、権力が分散した状況から、一元的な権力が出現し、武力を手段とする実力に基づく自立解決が否定されるようになったことをもって、中世は終焉し、近世という時代区分に移ったと考えられるわけである。