入試小説のパターン

石原(2002)によれば、入試小説で用いられる文章の物語にはいくつかのパターンがあると考えられる。石原は、「国語はソフトなイデオロギー装置」であるとも指摘する。

  • 主人公「私」の親が出てきたら、「「私」が親と同じになる物語」と見て間違いはない。学校空間の中での親と子はお決まりの役割しか演じないからである。「理解しあうことが常に正しい」という思想も厳としてある。
  • 学校空間で「教師」が出てきたら、教師は「親」のメタファーで語られることが多い。教師と生徒の物語は、父親や母親と子供の物語のメタファーであったりする。
  • 学校空間の物語は、家族の物語とオーバーラップする。フロイト的家族観のように、子が親と同じになることを「成長」と意味づけ、それが「道特的に正しい家庭」であると意味づける。古臭い家族道徳観が選択肢にも反映されたりする。
  • 学校空間の二重基準、すなわち、男は「堕落」してもいいが女は「健全」でないと許されないという基準が本文選びに働いている可能性がある。同様に、男性作家の小説は不道徳で後ろ向きのものでも許されるが、女性作家の小説は健全で前向きの「物語」でないと許されない可能性がある。
  • 「道徳的な枠組み」から読むことが正解を導く物語。例えば、学校空間にふさわしい「妻像」、ふさわしくない「妻像」がある。
  • 恋を描く物語のパターンとして、互いに反発しあっていた二人がしだいに惹かれ合うようになるというものがある。こういった心理の綾を利用した物語が考えられる。
  • 「女性の恋は受身だ」という古風な固定観念が透けて見えることがある。

また、石原は、入試小説の読み方の重要なポイントとして、「小説を読むことは細部との格闘」だと指摘する。小説文の細部に出てくる描写などから、時代背景や登場人物の生活水準など、物語を理解するのに重要なヒントを読み取ることができる。これらを生かしながら全体を理解するという辛気くさい作業の繰り返しが、小説文の理解を深めるのだろう。