国語教育の思想

石原(2005)は、現在の国語という教科の目的は、広い意味での道徳教育であると指摘する。つまり、国語ができるということは道徳が身についているということを意味する。


国語教育は「正しい生き方」を教える、「教訓」が付き物の「お説教」臭い科目である。例えば、国語教科書で定番の『羅生門』『三月記』『こころ』『舞姫』は、「エゴイズムはいけません」という道徳的メッセージを教えるのに都合のよい作品である。また「受け狙い」の意図もありそうな吉本ばななの『みどりのゆび』については、彼女の作品の中でも、「(道徳的に)問題系」の作品ではなく、かつ、「他人の心の痛みを理解しなさい」「自立をしなさい」「自然に帰ろう」など、学校空間好みのメッセージを教えるのに適している。これらが「定番教材」に隠れている「思想」であると石原は指摘する。


石原(2005)は、当時の小学校の国語教科書の分析を通じて以下のような点を指摘している。


ここ数年の中学入試においても、テーマは2つしかなく「自然に帰ろう」「他者と出会おう」であり、これは国語教科書のテーマそのものである。この2つのメッセージを内面化した人格が、戦後の国語教育が求める「人格」である。例えば、「かざぐるま」「ともだち」などの教科書のタイトルを一瞥しただけでも、かなり昔の、しかも田舎に住む小学生がイメージされている。まさに「自然に帰ろう」である。教科書の中身では、動物の主人公が異様に多く、人間が主人公になっているのは「昔話」のたぐいである。都会人の3割は住んでいる「マンション」はまったく登場しない。むしろ「郷愁」という「幻想」を通じて「田舎は良い」という思想を植えつけようとしているかのように見える。このように、都会に住む現代人にはあまり現実味のない話が多い。全体的に「都会嫌悪」「近代嫌悪」である。つまり、「昔はよかった」「昔へ帰ろう」「田舎へ帰ろう」というメッセージがこめられており、さらにいえば「(自然と闘争しない)動物に戻ろう」、すなわち与えられた環境をそのまま受け入れ「批評」しない人格を求めている。受動的で与えられた環境に対して従順な(動物的でかつ操作されやすい)「人格」を作り上げようとする意図が見え隠れする。つまり、国語教育が、ソフトなイデオロギー装置の1つとして利用されていると考えられるのである。