キャリアの幅の日米比較

日本の大企業のキャリアはゼネラリスト型で、アメリカの場合はスペシャリスト型であるというのが通念的な見方であったが、小池にはじまる実証研究では、必ずしもそうではないという結論が多数を占めている。つまり、日本の大企業のキャリアであっても、ゼネラリストというよりは、幅が狭く、専門性をもったものであるというのである。


それを示す例が、営業畑、国際畑、というような「畑」の存在で、これは、畑という専門領域の中でさまざまな仕事を経験していくキャリアを意味している。だから、日本の大企業といっても、さまざまな仕事を幅広く経験するといったキャリアはあまりないと考えられている。

では、日米ともに、それなりに専門領域をコアとしたキャリアであるのに、なぜ冒頭で述べたような通念が支配的であるのか。


それは「専門性」という概念が、「その分野ならどこでも通用する技能、それで飯を食っていける技能」であるというイメージを伴うことによるものだからではないだろうか。つまり、日米の違いは、一般的能力と企業特殊能力の比率によるものだと思う。


日本の場合、例えば「営業畑を歩んできた」といっても、それがゼネラルな営業力、転職したとしてもすぐに実力を発揮できる営業力というよりは、その企業の文脈に深く根ざしているために、他では使えないような営業力なのであろう。つまり、日本の大企業で行なう仕事の多くは、例えば企業内の暗黙のルールを知っていなければできないとか、人間関係、権力構造の微妙な力学を勘案しないと仕事ができないとか、企業特殊的な知識や技能の割合がかなり多い仕事なのだと考えられる。


それに対し、米国の場合は、一般的な能力による仕事が多いと感じる。つまり、仕事が標準化されており、それが組み立てられた形で企業組織が設計されている。だから、そのコンポーネントとしての例えば販売職であれば、スキルも一般的で、転職したとしても転職先で容易に実力を発揮できる構造なのであろう。


よって、日本では、長期雇用のもとであるていど専門特化したキャリアを歩むにもかかわらず、他では使えない知識や技能が多いことから、スペシャリストというイメージがもたれず「ある程度専門特化していても、企業内の文脈の知識が蓄積されることによってよい仕事ができる=社内の多くのことを知っているゼネラリスト」ということになってしまうのではないだろうか。あるいは、企業外に出てしまえば、特に何ができるわけでもない、という冷笑的な意味を込めて「会社に依存しているサラリーマン=労働市場においては特定の強みを持たないゼネラリスト」と呼んでいるのかもしれない。


例えば、人事畑、HRを専門とするキャリアを、日米企業で歩むとしよう。米国の企業でHRをキャリアとして選んだ場合、転職を繰り返すことによってキャリアアップしていく姿が見られる。HRという専門領域は変えないが、さまざまな企業を経験することによって、HR専門家としてのスキルが充実し、それが仕事の高度化にもつながる。一方、日本の大企業で人事畑といったら、同一企業の人事部の中で、採用や賃金や教育などやや幅のある分野を経験していくというキャリアが一般的である。これは、同一企業で長く経験をすればするほど、その企業独自の文脈や人間関係、その他の知識やスキルが蓄積され、それがよい仕事をこなすもととなっていくことを示している。先述したように、米国型の場合が複数の企業を経験することによって、一般的スキルを洗練させていくのに対し、日本型の場合は同一企業で長期に雇用されることによって、企業特殊的なスキルが充実してくると解釈することができるのである。