生物と機械はどう違うのか

近年のAI(人工知能)の発達に伴い、シンギュラリティ (技術的特異点)というコンセプトに言及されることが増えている。これは、ざっくりというと将来AIが人間の能力を超えるという予想を指すものであるが、この考え方の根底には、人間のような生物と、コンピュータのような機械とは本質的には同じであるという前提があると思われる。西垣(2016)は、この前提を指摘したうえで、それは根本的に間違っていることを主張する。つまり、生物と機械とは本質的に異なった存在なのである。では、両者はどのように異なっているといえるのだろうか。

 

西垣によれば、コンピュータは純粋に「過去」にとらわれた存在である。コンピュータはプログラムで動く。プログラムの語義は、設計者やプログラマーアルゴリズムを「前もって書く」である。膨大なビッグデータを活用する機械学習、深層学習のような高度なAIが出現しても、本質は変わらず、すべてのコンピュータ処理は「過去」によって完全に規定されているというのである。一方、人間は「現在」の時点で判断しながら生きている。変動する現在の状況に合わせて時々刻々、意思決定を実行しないと生きていけない存在である。つまり、一般に機械とはあらかじめ設計された再現性にもとづく静的な存在であるのに対し、生物とは、流れゆく時間の中で状況に対処しつつ、たえず自分を変えながら生きる動的な存在なのである。

 

さらに、生物と機械の違いは「心と脳」の関係を考えるといっそう明らかになると西垣はいう。西垣によれば、「脳」とは、われわれが外側から、なるべく客観的・絶対的に分析把握するものであり、一方「心」とは、われわれが内側から、主観的・相対的に分析把握するものである。例えば、クオリア(感覚質)は、主観に生じる出来事なので、心を内側から観察しないと決してわからないものである。要するに、心と脳とは、観察の仕方や視点に伴ってそれぞれ出現するもので、カテゴリーがずれているのだという。生物も機械も物質的な要素からできているが、以下に示すとおり、要素群の組み立て方や作動の仕方が両者では異なっている。

 

機械は設計されたものだから、その働きを外側から観察することができる。つまり「観察されたシステム」である。機械は人間が設計するものだから、本質的に他律的なシステムであり、そのメカニズムはたとえ複雑であっても外側から観察すれば十分に理解できるわけである。機械やコンピュータが処理をする情報はデータ(記号)に過ぎない。しかし、生物は自らが「観察するシステム」である。主観によって周囲世界を観察し・分類しながら行動している。生物にとっての情報とは「意味」であり、どのように生きていくかを現時点で自律的に決断するための根拠である。このように生物の作動の仕方は自律的であるため、生物にある刺激を与えても、どういう反応が出現するか、完全な予測ができない。生物というシステムを外側からいくら観察しても、そこには原理的な不可知性が残るというのである。

 

つまり、生物は閉鎖系であり自律システムであるから、生きるために外部環境から自分で意味・価値のあるものを選びとり、独自の内部世界を構成するのが生物の特徴である。たとえ自然や外部環境が多様な制約を押し付けてくるにしても、それに完全に従うわけではなく、閉鎖系としての内部世界に基づく自律システムもしくは自由意志に基づく行動を行っているのである。よって、自律性は生命の本質的な特徴の1つだと考えられる。一方、機械はもともと他律的存在だから、自律性とはまったく縁がない。人工知能もいずれは内部世界を持つ自律システムになっていくのではないかという意見があるのかしれないが、ゾウリムシのような原始的生物さえ製造することができない人間が、そのような生命的な自律システムを作れるわけがないと西垣は考えているようである。

 

西垣は、機械と異なる生物の本質は「自らに基づいて自らをつくる(オートポイエーシスする)」存在だというところにあるという。生物は自己循環的に作動するシステムであり、そこには習慣性があるので、生物の反応がまったく見当がつかないわけではない。つまり、私たちは自分の記憶に基づいて会話を解釈しながら記憶を少しづつ書き換えていくのであり、生物集団の繁殖行動も、遺伝的記憶の書き換えという意味で自己循環的である。要するに、生物は自分で自分をつくるので、ある程度、行動は予想できるにせよ、本質的にはその作動の仕方や反応は外側から観察してもよく分からない「閉鎖系」となっている。

 

このように、生物は、外側から頑張って観察すれば作動や出力が細かく予測できる「開放系」である機械とは根本的に異なっている。よって、ネオ・サイバネティクスが試みているように、主観主義の観点を加え、観察する主体という意味での「観察者の視点」から理解しようとすることなしには生物は理解できないと考えられるのである。

文献

西垣通 2016「ビッグデータと人工知能 - 可能性と罠を見極める」(中公新書)

ドラッカー+デザイン思考+ポーター=戦略の創造学

山脇(2020)は、ドラッカーの著作と、デザイン思考と、そしてポーターの競争戦略論を組み合わせることで、 新しい企業モデルである「共感と未来を生む経営モデル」を提唱する。言い換えれば、ドラッカーで「気づき」、デザイン思考で「創造し」、目的達成のための戦略を「実行する」ことを強調する。共感と未来を生む経営モデルを一言で表現するならば、注意深い観察によって未来に関する洞察を得ることで、顧客やユーザーからの共感が得られる「新しい意味」と「新しい世界観」に基づくビジョンを提示し、それを具体的な戦略やビジネスモデルによって実現する経営モデルだといえる。

 

この経営モデルが単なるデザイン思考と異なることの1つは、ビジネスの軸足を決めることの重要性だと山脇はいう。つまり、自分たちのビジネスの目的と使命は何か、そして将来に向けたビジョンは何かを決めることの重要性である。このために必要なのが、注意深い観察を通じて、「変化の兆し」あるいは「兆しにつながる兆し」を見つけることである。言い換えれば、「すでに起こった変化」「すでに起こった未来」を見つけるということである。例えば、人口動態の変化、世代交代、人種構成の変化、政治・経済情勢の変化、GenZと技術変化など、社会・技術革新・経済・環境・政治の変化を観察し、そこから洞察を行い、機会を見つけるということである。

 

そして山脇は、すでに起こっている変化の観察から洞察を得て見つけた機会を事業に結びつけるための一連の作業の方向を決定づけるのが、北極星としての「ビジョン」だという。つまり、大きな視野で、身の回りから世界までを俯瞰し、いま何が起きているのか、これからどのような変化が起きるのか、そしてどのような未来のシナリオを描けるのだろうかを考えるということである。将来に向けてのビジョンこそが、新しいモデルの軸となるのだという。

 

ビジネスの目的・使命(なぜ私たちの会社が存在するのか、何が私たちのビジネスなのか=価値と原則)を出発点として、現在起こっている事象、さまざまな領域でのトレンド・変化を観察して未来のシナリオをつくるプロセスと並行して「共感」「新しい世界観」「新しい意味」をつくりあげ、そこからビジョンを構築していくわけであるが、この「ビジョン=主観的に世界観をつくり、将来のシナリオを描くこと」を助けるのが、デザイン思考であると山岡はいう。ここでのポイントは、ユーザーの心に響き、共感を生む意味、そして世界観をつくることが、世界の顧客を惹きつける要因であるということである。つまり、デザイン思考は共感を生み出すためのツールであり、デザイン思考の本質は、「共感を生む意味と世界観をつくりあげること」なのである。

 

そして、ビジョンから戦略やビジネスモデルが構築されていく、すなわち新しい世界観と意味を戦略の軸とし、生まれたアイデアをビジネス・コンセプトにまとめ、それを実現していくわけであるが、そこで役立つのが競争戦略の理論だと山脇はいう。規模の経済性、サンクコスト、ネットワーク外部性、スイッチングコストなど、経済学の理論をベースとした基礎知識によって経済的要因を理解することが戦略構築の際に役立つのだと山脇はいう。とりわけ、産業の構造要因を分析し、社会・経済・技術・環境といったレベルの地殻変動がどのように当該産業、関連産業、異業種に変化をもたらしているのか、それによって企業行動がどう変化しているのかを理解することで、ポーターのファイブ・フォースを動学化することの有用性が示されている。

 

このように、山脇が提唱する共感と未来を生む経営モデルは、新しい「意味」と「世界観」をつくり、それをビジョンに盛り込み、その目的を達成するために戦略を構築していくことである。とりわけ、人種、あるいは人種間の文化の差を超えて、そして多様化する現実の社会で生活している消費者、ユーザー、観衆、聴衆を感動させ共感を呼ぶには、はっきりとしたメッセージ、「意味」「世界観」を伝えるストーリーテリングがますます重要になってきていると山脇は指摘する。そして、これまで説明した「気づく」「創造する」「共感を呼ぶ」「実行する」というプロセスを効果的に推進するためのマネジメント、すなわち企業内部の整合性、企業の外部環境との整合性、未来との整合性のマネジメントが重要なのだと山脇は説く。すなわち、目的・ビジョン・未来・共感・戦略は明確か、整合的で一貫しているかを確認しながらの経営が必要だということである。

文献

山脇秀樹 2020「戦略の創造学: ドラッカーで気づき、デザイン思考で創造し、ポーターで戦略を実行する」東洋経済新報社

情報化/消費化資本主義の臨界

見田(2017)は、20世紀後半から現在にかけては、「近代」という加速する高度成長期の最終局面であることを示唆するが、この最終の局面の拍車の実質を支えていたのが、1927年の歴史的な「GMの勝利」を範型とする「情報化/消費化資本主義」というメカニズムだという。見田によれば、プレGMの勝利の時代では、古典時代の資本主義において、消費市場需要に対応して規格化された大量生産と低価格化された堅牢な大衆車を普及されるという「生産というシステムの王者」であるフォードの時代でもあった。しかし、この方法は、自ら市場を飽和させてしまい、恐慌を生み出すといった古典的資本主義の限界を内包していた。

 

一方で、GMは、「自動車は見かけで売れる」という信条のもとで「デザインと広告とクレジット」という情報化の諸技法によって車をファッション商品に変え、買い替え需要を開発するという仕方を発明したことによって、市場を「無限化」したのだと見田は指摘する。つまり、「情報化/消費化資本主義」というのは、情報による消費の自己創出すなわち消費市場を自ら作り出すというシステムの発明によって、かつて「資本主義の矛盾」と呼ばれた恐慌の必然性を克服し、社会主義との競合に勝ち抜き、20世紀後半30年あまりの未曽有の物質的繁栄を実現したシステムだというのである。

 

しかし見田は、情報化/消費化資本主義の範型でもあったGMが2008年のサブプライムローンの問題を契機として突然の危機と暗転を迎え、人間の少なくとも物質的な高度成長期の「究極の形態」であるこの資本主義システムの「限界」を露呈することとなったというのである。それはなぜかというと、情報化/消費化資本主義の発明により、消費の無限拡大と生産の無限拡大の空間を開くことで資本主義の矛盾をみごとに克服することに成功したのだが、この「無限」に成長する生産=消費のシステムは、その生産の起点においても消費の末端においても、資源の無限の開発=採取を前提とし環境廃棄物の無限の排出を帰結するシステムであるからである。

 

資源や環境は現実には有限であるが、情報化/消費化資本主義では、有限性に到達しても、資源を「域外」から調達し、廃棄物を海洋や大気圏を含む「域外」に排出することをとおして、環境容量をもう一度無限化することができたのである。しかし、このグローバルなシステムは、グローバルであるがゆえに、もういちど「最終的な」有限性を露呈することとなったのだと見田は論ずる。グローバル・システムは球のシステムであるから、どこまでいっても障壁はなく無限に見えるが、それでも1つの閉域でであって地球に域外はないのだというのである。

 

つまり、見田によれば、グローバル・システムとは、無限を追求することをとおして立証してしまった有限性に他ならない。サブプライムローン問題に端を発する2008年の「GM危機」は、 情報化に情報化を重ねることによって構築される虚構の「無限性」が、現実の「有限性」との接点を破綻点として一気に解体するという構図を見ることができたわけで、1929年の世界恐慌ほどには悲惨な光景を生まなかったにせよ、ほんとうはもっと大きな目盛の歴史の転換の開始を告げる年として後世は記憶するだろうと見田は指摘する。

文献

見田宗介 2017「社会学入門: 人間と社会の未来(改訂版)」(岩波新書)

アンプロダクティブタイム(=何もしない時間)はなぜ大切か

長倉(2020)は、アンプロダクティブタイム(=何もしない時間)をどれだけ持つかが人生にとって非常に大事なのだと主張する。長倉によれば、アンプロダクティブタイムをたくさん生み出すために、プロダクティブタイムの質を高め、全力で時短を進めるべきなのだといっても過言でない。では、なぜアンプロダクティブタイムが重要なのか。

 

まずいえることは、プロダクティブタイムを磨いて生産性を高めても、それで人生が変わることはないということだ。過去の延長線上の人生が加速するだけだからである。そして、アンプロダクティブタイムは一見すると無駄なことに見えるが、人生には無駄そうに見える経験が活きたりする。よって、以下の長倉の説明のとおり、アンプロダクティブタイムでの経験が実は人生を実り豊かにするといえるのである。

 

長倉が主張するアンプロダクティブタイムが重要な理由の1つ目は、何もしない(=休む)ことがメンタルに良いということである。2つ目は、アンプロダクティブタイムを持つことで、1つのことを長く続けることができ、続けることが成果につながるのだから、過度なプレッシャーをかけることなく成果が出せるということである。

 

3つ目は、生活の中に「空白」や「余白」持つことで、いろいろなものが入る余地が生まれる、すなわち視野が広がるということである。人生は偶然でできているので、「余白」は、人生を面白くする「偶然」をたくさんもたらしてくれるわけである。4つ目は、視野が広がり、あらゆる情報が入ってくる結果、クリエイティブになれるということである。

 

5つ目は、やりたいことが見つかるということである。視野が狭ければ「やりたいこと」に出会う可能性も低くなるが、視野が広がることで「何もやらなくてもいいのに、やりたくなるもの」が見つかるというわけである。そして6つ目が、視野が広がり、ユニークになれば、いろんな人から誘わえるようになるし、誘いを受ける時間的余裕もあるため、圧倒的に出会いが増えるということである。長倉は、「出会い」で人生が決まるという。

 

要するに、生産性にこだわるほど、人は疲弊し、どんどん視野が狭くなるのと反対に、アンプロダクティブタイムを増やすことで、人生が豊かになっていくと長倉はいうのである。

文献

長倉顕太 2020「「やりたいこと」が見つかる時間編集術 「4つの資産」と「2つの時間」を使って人生を変える」あさ出版

 

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「経験論」を基盤とする英米哲学の系譜

一ノ瀬(2016)は、英語圏の哲学的系譜すなわち英米哲学の諸潮流は「経験」を基盤に据えるという発想に導かれているとの視点から英米哲学史を概説している。一ノ瀬によれば、経験論における「経験的」とは、「努力し試みることの中において」という意味である。そこには。「知ること」と「行うこと」すなわち知識と行為とは決して峻別されることなく滑らかに連続した仕方で捉えられるものであり、努力して試みることは進展し続けるプロセスであるがゆえに「程度」を許容し計量化を志向してきたという。このような視点から、英米哲学の系譜を、イギリス経験論から始め、その発展形としての功利主義分析哲学プラグマティズム、正義論、自然主義ベイズ主義といった流れで説明するのである。

 

まず出発点として、ベーコン、ホッブズといった中世のイギリス経験論から始め、経験論の創始者といってもよいロックの哲学、そしてバークリ、ヒュームの認識論や因果論を経て、ベンサムやミルの功利主義を説明する。認識論や因果論では、人はいかにして知識や観念を獲得するのか、どのようにして世界を認識するのかといった議論が中心となっていたが、経験論の流れを汲む功利主義では「何が幸福であるか」を知ろうと努力する試みを本質的に含み、最大多数の最大幸福といったように、程度を許容し計量化を志向すると一ノ瀬は説く。そして、ミルの時代から徐々に勃興して、20世紀以降の分析哲学の潮流を形成する基盤となる「論理実証主義」や「言語行為論」が説明される。経験論の流れを汲みつつも、基本ツールとして論理学を装備するようになったのが分析哲学である。

 

論理実証主義は、マッハやブレンターノの認識論によって醸成された経験論的な傾向と、哲学の問題のすべては言語の問題だとするフレーゲラッセル、ヴィトゲンシュタインなどが促した「言語論的転回」の両方の要素が融合したもので、哲学的に有意味な命題とは、経験から独立した論理的に妥当な分析命題と、経験に基づいた事実についての総合命題の2つしかないと考える。つまり、論理実証主義は「論理」と「経験」を有意味性の源泉として認めているのだと一ノ瀬は解説している。中でも言語分析は、論理実証主義からオースティンの行為遂行的発言の分析などを発端とする言語行為論に移り、言語現象を知識と行為の融合形として扱う、すなわち言語現象を経験論的に読み解く道筋へとつながったのだという。

 

次に、パースの哲学に始まるアメリカ固有の哲学というべき潮流としてのプラグマティズムが説明される。プラグマはギリシア語で「行為・行動」の意味であり、本質的に「観念・概念」と「行動に対する影響」との間の因果関係に依拠した思想であることから、イギリス経験論や功利主義の原着想と連続しており、発展形とみなせると一ノ瀬は論じる。プラグマティズムは、ジェイムズやパースの哲学の後、デューイによってある水準まで到達し、ローティらによるネオ・プラグマティズムにつながっていったが、その中で、アブダクションの思想や真理論に拡張され、さらに、ロールズの正義論のように、倫理学・政治哲学にも波及していったという。

 

さて、現代哲学に目を向けると、もともと経験論では経験に由来する知識を前提としてきたが、これが現代の認識論や科学哲学において、とりわけ帰納法に伴う様々な根本的な問題の指摘につながったと一ノ瀬はいう。例えば、ヘンペルによって帰納法と論理学の関連から指摘された問題である「ヘンペルのカラス」、グッドマンによって提議された「グルーのパラドクス」、ポパーの「反証可能性」の議論とハンソンによって提議された「観察の理論負荷性」、クーンの「パラダイム論」などが挙げられる。そして21世紀の今日では、科学哲学の関心が「生物学の哲学」に大きく移っていると一ノ瀬は指摘する。その理由は、認識や倫理といった哲学の基本問題が、生物としての私たち人間にかかわる営みであるからである。これは、経験的に生物現象を観察するという事態の意義をどう捉えるかの問題であり、帰納法の問題を端緒として展開されてきた分析哲学的な知識論が、科学哲学の興隆を経てついには生物の問題へと収斂してきたのだと一ノ瀬はいうのである。

 

次に解説されるのが、現代分析哲学において認識論から倫理学にまたがって様々な形で展開されている「自然主義」の興隆である。これは、クワインによる「自然化された認識論」を端緒とする。クワインによるホーリズム全体論)では、私たちの知識や信念の体系は全体として「人工の構築物」であり神話であるとする。科学は単に他の神話よりも効率のよい神話であり未来を予測するための道具にすぎないというかたちでプラグマティズムへの強い支持を打ち出している。よってクワインは、私たちが事実として、どういう証拠からどういう理論や知識へ至るのかを「自然科学的」に探求する「自然化された認識論」もしくは「自然主義的認識論」を提唱したという。つまり、知識も自然現象であり、自然科学的に探究されるべきだということである。この考え方は、デイヴィッドソンによる行為の因果説や心の哲学につながり、それが、自由と責任の問題や倫理学の自然化にもつながっていったという。

 

最後に、現代分析哲学における認識の不確実性についての活発な議論が紹介される。これは、量子力学での不確定性原理などの影響を受けたものでもあるが、不確実性は「どの程度」という量的測定ともなじむ概念であり、計量化への志向性という意味での経験論の本筋に直結した思想動向だと一ノ瀬は指摘する。ここで不確実性として論じられている要素には「確率」と「曖昧性」とにかかわる問題圏に分けられる。確率についての議論には、例えば、原因と結果の間に、因果的必然性という概念に代えて確率的関係性を読み込むという議論がある。ただ、この確率的因果の考え方が完璧な説得力を持っているわけではない事例として、シンプソンのパラドクスが提唱されたりしている。曖昧性に潜む問題としては、ソライティーズ・パラドクスが取り上げられている。そして、功利主義分析哲学が融合した思想で、経験論的な哲学の今日的な姿でもあるベイズ主義が取りあげられている。

 

一ノ瀬の考えでは、経験論的発想を共有する功利主義分析哲学の融合は、究極的には因果性の概念へと収斂してくる。こうした経験論的な文脈で因果性に焦点を合わせることの視点は、経験論的発想が「知ること」と「行うこと」の連続性を起点とする思考様式である限り、「知ること」と「行うこと」の起点である「人格(パーソン)」へと回帰してくるはずである。「人格」とは責任帰属のありかであり、原因概念はもともと責任概念と同根である。経験論はこうして「人格」の問題を遠巻きにめぐりながら、巨大な渦のようなものとして、らせん状に進展していくのだと一ノ瀬は主張するのである。 

文献

一ノ瀬正樹 2016「英米哲学史講義」 (ちくま学芸文庫)

デジタル革命がもたらすポスト人間社会

現代はデジタル革命が進行している。石田(2020)は、自身が構築を進める「新記号論」の立場から、デジタル革命が進むことにより、アナログ的な認識を担う意識的主体としての「人間」が、デジタルな記号を演算処理する計算論的主体である「ポスト人間」に席を譲ろうとしているのだと指摘する。つまり、人間たちの生がサイバースペースの計算論的プロセスの中に組み込まれ(人間がヴァーチャル化されたうえで記号列に書き換えられ)、自らの分身として「ヴァーチャルな主体」(計算論的にシミュレートされた人間の意識)を影のように従えて生きるようになるというのである。どういうことなのか、もう少しかみ砕いて理解してみよう。

 

デジタル技術やそれによって可能となったサイバースペースの特徴は、イメージ、テキスト、音声などあらゆるものがコンピュータを通して入力されると、いったん二進法の人工記号列に書き換えられたうえで高速演算の対象となり、記号として合成されるところにあることを石田は示唆する。そういった意味で、サイバースペースは記号からのみ成る「記号空間」といってもよい。それまでアナログ的にしか処理できなかったものを含め、世界のデータのすべてがデジタル技術を通して0か1に書き換えられるようになった。ということは、すべてのデータが数学的に演算可能になるということでもある。しかもそれは人間が認識できないほど高速に行われ、さまざまな記号が合成可能となる。いってみれば、デジタル技術は、文字であろうと、イメージであろうと、音声であろうと、あらゆる種類の記号を一括して処理し、全世界の人々に一瞬のうちに伝え、それらの記号を自在に蓄積・変形・合成する技術なのである。

 

つまり、石田によれば、コンピュータによって媒介された人工の記号空間(=サイバースペース)は、世界のすべての事象を記号として捉え、記号操作によってすべてを扱う。このようなデジタルな記号は、二進法指数による原理に基づいた記号であり、例えばアナログ記号が指し示すような現実の「指向対象」との結びつきを失い、記号のシステムとの関係においてのみ定義され、純粋に数学的に定義された形式的差異のシステムによって生成されるものとなる。アナログ記号(アナロジック[類似している]記号)の場合、類似性の関係や接触関係など、なんらかの結びつきにおいて指向対象と関連づけられている限りにおいて成立する。一方、デジタル記号の場合、記号自身の固有な法則性のみに基づいて成立するわけである。

 

サイバースペースは、宇宙の事象のすべてをデジタルな人工記号列に変換したうえで、人間に読み取ることが可能な自然記号を生成することによって生み出されている。つまり、コンピュータを通してサイバースペースに入力されたどのような記号も、いったん対象との参照関係、書き手や話し手との指標的な結びつきから切り離されて、潜勢的な変形可能性の中に還元される。入力された記号自体が、人工記号列となってヴァーチャル化する。人工的に合成された記号は、今度は、合成された自然記号として、指向対象を人工的につくりだすことになる。つまり、すべての色やかたちは、二進法の人工記号列によって記述可能となり、どのような色やかたちも生成できるようになる。その結果、どこにもいない人物の顔、存在しない文字、誰のものでもないテキスト、存在しない声、誰のものでもない語りなどを、人工的に合成された記号によって生成することができるようになったと石田は解説する。アナログ記号の世界では、指向対象すなわち「現実」として存在したものは、デジタル技術が可能にする自在な記号の合成によってシミュレートされるものへと位相を変えていくのである。

 

では、これまで見てきたようなデジタル技術やサイバースペースの進展とともに生きる人間はどのように変容していくのか。石田によれば、サイバースペースでは空間が現実空間とは異なった成立をしており、ユーザーの存在も、分身や化身(アヴァター)として組織されることが可能であり、身体感覚さえもが合成されうる。現実空間におけるユーザーの「いま、ここ」が、インターフェースを通してサイバースペースのどこでもない場所に接続し、感覚と記号を生み出す超高速度の演算によって、人間にとっての空間や時間、身体、感覚、自己像までも情報技術によって大幅に書き換えられる。つまり、ユーザーの精神も、計算論的プロセスと相同化し、身体をヴァーチャル・リアリティの経験と直接リンクされる。デジタル技術による人工空間に、人間の精神と身体がともに没入していくわけである。

 

石田は、デジタル技術やサイバースペースの進展によって、「人間」という形象において統合されていた世界の経験とそれに意味を与える表象作用との関係が、もはや「人間」という統一体を経由しなくなっているのではないかという。「人間」という世界の経験の統合形式が変わり、人間が働きかける経験の領域であった自然、経験の源としての生命が、プログラムに書き換えられる。事物や現象は次々とヴァーチャルな計算論的空間の中に転位され、人間のアヴァター化が進み、デジタルな記号列を演算処理する計算論的主体である「ポスト人間」を生き始めているのではないかというのである。

文献

石田英敬 2020「記号論講義 ――日常生活批判のためのレッスン」(ちくま学芸文庫)

カントはなぜ(純粋)理性を批判するのか

西(2020)は、カントの『純粋理性批判』を、哲学史上最も難解な著作のひとつであるが古今数多の哲学書の中でも五指に入る重要な著作だと指摘しつつも、そのエッセンスを分かりやすく説明しようと努めている。西によれば、カントの『純粋理性批判』は、人間がそなえる「理性」の能力とその限界を明らかにし、近代哲学が直面していた難問に体系的な答えを示した点で、哲学の根本を揺るがすほどの決定的なインパクトを与えたものである。カントのいう理性は、広義には感覚を含む人間の認識能力一般であり、狭義では物事を推理する能力を指す。「純粋理性」の「純粋」とは、経験から得た知識を含んでいないという意味である。では、カントはこの著者で理性の何を批判し、何を明らかにしたのだろうか。

 

カントの純粋理性批判での課題は、1)自然科学の知はなぜ客観的に共有することができるのか、2)なぜ人間の理性は究極真理を求めて底なし沼にはまってしまうのか(不死なる魂や神の存在など答えが出ない領域の議論)、3)よく生きるとはどういうことか、であった。これらの課題とその答えを理解するには、まずカントが提示した認識論すなわち「人間はどのように事物を認識するのか」を理解する必要がある。カントは、人間の認識の基本構造を明確にすることによって、きちんとした根拠によって共有しうる知の範囲はどこまでで、そこからはそれを逸脱するので共有できる答えが出ないことを示そうとしたのである。つまり、どのような知識であれば合理性をもって共有しうるのか、いかなる仕組みで共有が可能になるのかに答えようとしたわけである。

 

西によれば、カントは、対象の真の姿である「物自体」は認識できないと考え、人間が認識しているのは、それぞれの主観(心)に映った像であると主張した。よって、主観が主観の外に出て客観世界そのもの(物自体)と一致することは不可能である。しかしカントは、どの主観も一定の共通規格をもっている(共通のメガネをかけている)から、世界について皆が共有しうる認識は成り立つと論じた。その共通規格(メガネ)は、感性+悟性の二重構造になっている。人間が有する感性は、空間と時間という枠組みをアプリオリ(生得的)に備えており、感覚器官を通じて物自体から受け取った多様な感覚を、空間・時間という枠組みによって位置づけて「直観」をつくる。そして悟性は、直感された漠然としたイメージを、経験概念や純粋(アプリオリな)概念を用いて整理することによって明確な判断を作り出す。

 

生得的に人間に備わっている感性や悟性によって生み出される「アプリオリな総合判断」は、どんな人にも共通な「認識の際に働く原則」に基づくから、それが数学や自然科学の土台になっているとカントは論じるのである。そこには、数の概念や因果律が含まれる。このように、空間と時間という枠組みのなかで与えられる直観と概念が結びついた認識は、客観的な認識といえるわけだが、カントは、直観できる世界を離れ、どんどん暴走していく思考のエンジンとして「理性」の働きをとらえた。感性が空間・時間を伴う「直観」をもたらし、悟性が「判断」を作り出すのに対し、カントがいう理性は「推論」という働きを持っている。理性による推論は直観に縛られないので、暴走して、答えの出ない「究極真理の探究」に向かってしまうとカントはいうのである。

 

カントによれば「宇宙は無限か、有限か」「魂は不死か」「神は存在するのか」といった問いは、人間が持つ共通規格によって認識できる現象界を超えてしまっているので、どんなに考えても答えが出ない。しかし理性は、推論に推論を重ねるあげく、現象界から逸脱してしまい、答えの出ないことを求めて暴走してしまうというのである。なぜか。それは、まず、理性が「完全性」を求めるからである。理性による推論は、世界全体を完結した完全なものとしてつかもうとする。世界全体がつかめると、そこに「自分」や「現在」を位置付けることができて安心できるからである。また、理性は、限りなく問い続けることで真理に近づこうとする探求心を有している。つまり、理性は「全体を知って安心したい」「もっともっと問い続けたい」という性質を持っており、「究極的な完全なもの」として「理念」を作ろうとするというのである。

 

西の解説によれば、カントは、理念は「探求の目標」として人間に課されたものだと述べ、究極の真理にたどり着くことは永遠にないけれど、人間はそこを目指して可能な限り探求しなくてはならないと説く。そして、その働きがもっとも有効なものとして発揮されるのが、実は認識や理論の領域ではなく、行為(道徳)の領域だとカントはいうのである。すなわち、「完全なもの=理念」を思い描く理性は、認識の面では実現しないが、人が実践(行為)するとき、理性は「完全な道徳的世界」という「実践的理念」にもとづいて、それをそのまま実現するよう「~すべし」と命令してくるのだという。カントは、道徳的に生きることを最高の生き方とするのみならず、道徳的に生きることに人間の自由があるといっていると西は解説する。その理由は、人間の欲望や感情といった傾向性に受動的な感性に対して、それを正しい行為かどうかを判断し、コントロールしようとするのが(実践)理性だからである。

文献

西研 2020「カント『純粋理性批判』 2020年6月 (NHK100分de名著) NHK出版」