20世紀アジアの雁行形態型発展モデルとは何か

後藤(2019)によれば、雁行形態型発展モデルは、第二次世界大戦後の20世紀のアジアにおける日本の経済発展プロセスとアジア諸国との関係を説明するのに有用なモデルである。戦後の歴史を振り返るならば、様々な国際政治経済的な要因が重なり、アジアの中では日本が戦後復興と高度成長をいち早く実現した。そのため、20世紀後半のアジア経済の発展は日本が主導した。日本が主導したアジア経済の発展を雁行形態論を用いて一言でいうと、一国(日本)で起きた経済発展の波がその国(日本)だけに収まらず、国境を越えて隣国に伝播していくようなメカニズムが働いていたといえる。20世紀後半のアジアの経済発展では、雁の群れの一番先頭を飛んでいたのが日本だというわけである(二番手を飛ぶ雁のポジションに韓国やシンガポールなどの国々がいた)。日本の一極体制下におけるアジア経済秩序のダイナミズムの基本構造だともいえる。


雁行形態論の原点は、途上国を先進国との関係で見た際、その経済構造が異質なものから同質化へと向かうプロセスに注目した点と、その途上国における国内産業の盛衰サイクルを輸入ー国産ー輸出ー再輸入という貿易形態の変化との関係で途上国の工業化の動態を論じた点にあると後藤はいう。つまり、一国内で輸出から輸入に転じる局面において、当該産業がより後発の近隣諸国へと移転されるというメカニズムを説明するためのモデルなのである。以下で具体的に説明しよう。


産業が未発達の後発国では、工業製品は通常輸入されるところからスタートする。工業製品の中でも、労働集約的で汎用技術が中心の生産が比較的簡単なものについては次第にその供給が国産品によって代替されるようになる。さらに時間が経つと、同産業の競争力が増して生産量が拡大し、輸出産業と化す。経済のさらなる発展に伴って資本蓄積が進んで賃金が上昇し始めると、今度は労働と資本といった生産要素の相対価格が変化し、当該産業の競争力を失う局面がくる。そうした経緯を経て、やがてはその工業製品を再び輸入する状態に回帰する。このころになると今度はより資本集約的で高い技術水準が要求される高度な財や、そうした財の生産に使われる設備機械等の生産財に関して、同様のサイクルが起きるようになる。以下のように後藤は、繊維(軽工業)・鉄鋼(重工業)・テレビ・自動車(技術集約型産業)を例として雁行形態発展モデルを説明している。


戦後の日本は資本蓄積レベルがまだ低かったが、生地や衣服などの繊維製品の生産技術が他産業と比較して労働集約度が高かったことから、国産品が増加し、1950年代になると競争力が増したため生産量の拡大と輸出の増加が起こった。しかし経済が成長し始め、1960年代に賃金水準が上昇して資本蓄積が進むと、こうした労働集約的な繊維産業の競争力が低下した。その際、日本で斜陽化し始めた繊維製品の生産を、当時はまだ資本蓄積レベルが低かったアジアNIEs(韓国、台湾、香港、シンガポール)が担うようになった。つまり、繊維産業は同じアジア域内のNIEsに移転した。よって繊維製品は日本からの輸出が減り、アジアNIEsからの輸入品に代替されるようになった。一方、日本ではより資本集約的な鉄鋼部門など重工業の競争力が高まっていった。しかし、これらも同じメカニズムを通じてアジアの周辺国が成長すると競争力を失うことになり、さらに資本と技術の集約度の高いテレビや自動車の生産に競争力が移っていった。


雁行形態論に従えば、NIEs諸国でも同じようなサイクルが起こることになる。すなわち、1970年代にはいると、NIEsでも資本蓄積が進んで繊維から鉄鋼の生産に産業構造の中心が移り、新たにタイやマレーシア、フィリピンやインドネシアといったアセアン諸国が台頭して、地域の中で繊維製品の生産を担うようになったのである。つまり、20世紀のアジアの経済発展は、産業がより後発の近隣諸国へと移転されるというメカニズムを通じて、一国では時系列的に産業構造が変遷する一方、それぞれの時代においてアジアの国際生産分業体制の秩序ができていた。このメカニズムの基本単位は産業部門や消費財である。20世紀のアジアでは、産業間の域内分業を通じて経済秩序が形成されていったのだといえるのである。