存在神秘を味わう

古東(2002)は、ハイデガーの著作を題材にしながら、「存在を味わう」ことの重要性を論じている。私たちはいま、こうして「生きて在る。」しかし、死ねば永遠の虚無。この世に二度と戻れない。この地球地上から消滅する。このように、いずれ消え去る私たちは、存在の無意味さ、はかなさ、よりどころのなさ、すなわち虚無感に襲われることもある。しかし古東は、このような「存在の否定性(無根拠、無目的、無常性)」が、存在のとほうもない肯定性(充溢、輝き、祝祭性)の別名であることを示唆する。前者を、「存在不安」、後者を「存在神秘」という。存在は虚無だからこそ神秘だというのである。


古東によれば、存在ほど身近なことはない。同時に、あらゆることについて、存在が究極根拠であり、至高である。そして、存在について理解しているのは人間だけである。他の生物や物体は、ただ存在するだけなのに対し、人間は、この世に存在していることそのことに開かれ(開示性)、存在と接触しながら存在している。つまり、存在を反芻しながら存在する(存在理解)のだという。この人間固有の能力(存在理解力、開示性)をフルに発揮し、存在に覚醒することが、私たちの変哲もない人生や世界を黄金色にかえるかもしれないのだと古東は論じるのである。存在論とはまるで人生の錬金術だと。


存在論の基本定式は「なぜ、なにかが存在しているのか、むしろ、なんにも無いのではなかったのは、なぜなのか」という問題である。これは科学では説明できない。「なぜ在るか、存在とはそもそもなんなのか」という問いに答えるためには、なにかそれに先立つもの(在るもの)にうったえず、あくまで「在る」という事実そのことだけに即し、存在をその自立性と内在性において考えるしかないと古東はいう。これは人間でいえば、生が生として実感される「生の事実性」にでくわし、「あらためて驚く」ことでもある。つまり「存在驚愕」である。存在忘却の根本体験(存在の凄さを忘れていたことの痛切な体験)とともに、とんでもない悦びがはじけとぶ体験である。


上記は「存在神秘」とも呼ばれ、この世の存在の法外な凄さ(天国性=至高性)に撃たれる体験である。存在の事実が、気づいてみればあまりにも凄すぎ(この世ならぬ)ほどの驚嘆をひきおこす。これが起こるのは、人間に、「生の事実性が至高である」という「覚醒能力(存在理解・開示性)」があるからである。古東は、ハイデガーの「現存在」は、「生命のいぶき」と置き換えて読むのがよいという。


古東は、ハイデガーが「存在と時間」でいいたいことの要点は「時を時として生きる姿勢(本来的刻時性、本来的歴史性)」だという。将来性、既在性、現在性が切り結ぶ、はかない一瞬の時を刻んで生きるわけである。


今ここのこの一瞬の生起は「二度とない、永劫に唯一、一回きり」であり、これを「歴史性」という。ハイデガーによれば、一瞬刹那の存在が「現存財の存在の全体」である。つまり「生誕から死までの全幅」を示している。「生きていることは、いつも同時に死に臨んでいること」であり、かつ「同時に生誕への存在」でもある。生と死が回互する。現存在は、その外部に誕生や死をもたない。始めと終わりを同時に内に含んで展出し、みずからを繰り出し繰りひろげ終滅させていく。自己内発的な刻一刻の性滅性。この唯一一回性を自覚し、覚醒的な態度(打ち開かれた態度)で過ごすあり方が、本来的歴史性なのだという。つまり、一瞬の時を刻んで生きる様子が「本来的刻時性」である。


そうすれば、在ることの無底性や刹那消滅性「存在が無であり刹那だ」ということがわかる。そして、在りえないことが在りえていること。ふだんは変哲もなくみえる存在が、気づけば実は、とほうもなく驚くべきことだと、存在驚愕が目覚めるというのである。