主観的意識体験の本質としてのクオリア

意識を持った<私>がふだん経験する主観的体験は、クオリア(ユニークな質感)に満ちている。目覚めにいれた一杯のコーヒーの香り、まぶしくギラギラした太陽の日差し、水の冷んやりとした感触。私のみが経験しているユニークな質感。他人は決してわからないし、他人が同じような質感を得ているのかもわからない。あくまで<私>が感じている質感。茂木(2003)は、このような<私>が感じている生き生きとした質感としてのクオリアこそが、意識の本質であると説く。およそ、意識されるものはすべてクオリアであるといってよい。


そもそも意識は、毎日生み出されるといえる。夜、睡眠状態になった時点で意識を失う。そして、朝、目覚めると、意識が立ち上ってくる。このような意識の生成とともに、<私>としての意識的体験が生み出される。この意識的体験は、現代科学においては、脳の働きによってもたらされると考えられている。しかし、現代科学というのは、この世のすべてが物理的法則によって動いているという「物理主義」、すべてシミュレーションで記述できるとする「計算主義」、そしてこれらに裏付けられた「機能主義」をよりどころとしている。このような世界観に基づけば、いま<私>が主観的に体験している、クオリアに満ちた感触は入り込む余地がないと茂木は言う。


つまり、物理主義/計算主義/機能主義に基づく宇宙や世界で、人間が生存していくのに、何故、いま<私>が経験しているクオリアに満ちた意識的体験が必要なのか理解できない。人間が自然法則の中で生存する「機械」もしくは「有機体」であるならば、クオリアに満ちた主観的意識など必要ないのではないか。世界に満ち溢れている複雑な情報を適切に処理し、適切に行動できる仕組みさえあれば生存していけるのではないのか。これは、主観的意識をもたない以外はすべて人間と同じである「哲学的ゾンビ」が存在しうるかという議論にもつながる。けれども現実に<私>がクオリアに満ちた主観的経験をしているという「事実」があるわけで、それが謎めいているのである。


茂木は、この問題を暫定的にでも解決するさいのキーワードとして「生成」を提案している。クオリアを伴う主観的体験は、脳の神経活動から生み出されている。脳科学によって解明可能な物理的世界と、現象学的アプローチで理解する主観的世界とは、とても対応しているようには見えないが、クオリアに満ちた主観的意識において<あるもの>が<あるもの>であるという同一性の本質は、まったく同じものが存在しつづけるのではなく、常に、生き生きとしたクオリアが生成されるプロセスにおいてのみ把握可能であるというように、同一性が「常に生成することによって支えられている」と考えられると茂木は示唆するのである。