武道の目的は「生きる伸びるための知恵と力」を高めること

内田(2010, 2013)は、武道の本旨は「人間の生きる知恵と力を高めること」であり、武道を通じて開発される力は「生き延びるための力」だという。これは、「あらゆる敵と戦って、これをたおす」こととは違う。では、身体技法としての武道が開発しようとしている「生き延びるための力」とは何か。


そもそも、武道が想定しているのは「危機的状況」であると内田はいう。言い換えれば、自分の生きる知恵と力のすべてを投じないと生き延びることできない状況である。そして「生きる知恵と力」とは「生き延びるチャンスを増大させるもの」をいかに多くすることができるかであり、「想定外の事態の出来に遭遇したときに適切な対応ができること」である。最も必要なときに、心身のパフォーマンスが限界を超えて最大化するような「しくみ」を身体に深くしみこませておくことが、武道修行の目的でもあるという。どうしていいかわからないときに、どうしていいかわかるような心身の技法を習得することである。このような修行というのは、例えば、他の人にとっては「そんなことをしても何の役に立たないこと」「何の意味もないこと」が、自分には役に立ち、自分には意味があると思えることだという。目の前の世界が自分に固有の仕方で経験されているということでもある。


例えば、本当の危機的状況のときには「こういうときはこう振る舞いなさい」というマニュアルが存在しない。そのときに、「とりあえずその用途や実用性がわからないもの」を、「何かの役にたつかもしれない」と思って拾い上げたものが、その後、死活的に重要な役割を果たすことがある。「用途や実用性がわからないもの」の用途と実用性を先駆的に直感する能力が、生き延びる力の1つであり、針の穴ほどの生き延びるチャンスを「先駆的に知っている」ことが死活的であるということでもある。すなわち、「先駆的に知る力」は「生き延びる力」にほかならないというわけである。私たちの祖先はこの「先駆的に知る力」をあらゆる機会を通じて強化洗練させてきたのだと内田はいう。武道は「先駆的な知」の開発のための技法体系である。


武道の修行を考えてみると、修行では愚直にある技術を反復練習するわけであるが、修行の意味は、事後的・懐古的にのみ分かるものであって、「あれができるようになる」という目標設定ができないものである。武道の修行を繰り返すうちに、ある日、「そんなことができるとは思ってもいなかったこと」ができるようになる。しかしそれは、それを身につけようと事前に目標を設定するようなものとはまったく異なる。このような点で、武道の修行は「身体を鍛えること」と大きく異なると内田は論じる。では、武道修行を通じて私たちは何を身につけようとしているのか。


この問いについて、武道をはじめ、すべての身体技法が最終的に要求しているのは「他者との共生能力」であり、これは「生き延びるための必至の技術」だと位置づけていると内田はいう。集団をひとつにまとめる力が、生き延びるためにもっとも重要な能力だからでもある。すなわち、「他者との共生」「他者との同化」を骨肉化することなしには技術が向上しないように構造化されているのが、先人たちが発明工夫したすべての身体技法であり、これらの技術を専一的に練磨するための訓練の体系が武道だというわけである。


武道的な身体運用ができる人間は「身を修め、家を済し、国を治め、天下を平らげること」ができると古来信じられてきたが、これは、戦場における殺傷技術に卓越した人間には政治的統治能力があるとみなされることでもあるが、それは、他者の身体と感応して、巨大な「共身体」を構築する能力が戦場における殺傷能力と同根のものであることについての社会的合意があったからだという。


実際、武道の修行では、危機において「自我」を脱ぎ捨てる訓練をしていると内田はいう。自己利益を優先する「今、ここ、私」を意識する自我は、平時においては有用だが、危機においては有害である。危機においては、他者との共生・他者との同化が必要だからである。武道において各々が自我の繋縛から自己解放することができれば、他者との身体的同期が可能となる。身体的同期によって協働身体を作り上げる技法が身につけば、それは究極的には「集団をひとつにまとめる力」につながるというわけである。


要するに、武道というのは、自分自身の弱さのもたらす災いを最小化し、他者と共生・同化する技術を磨く訓練の体系であり、心身の生きる力を高め、潜在可能性を開花させるための技法の体系なのである。