歴史学とは何か

歴史学とは何か。小田中(2004)によれば、歴史学は認識と解釈という2つの作業から成り立っている。認識とは、史実を明らかにすることである。過去に本当にあったことを明らかにするということである。解釈とは、認識した史実に意味を与え、ほかの史実と関連させ、そのうえで、まとまったイメージである「歴史像」を描く作業である。


史実を明らかにする上で、きちんとした史料にもとづいて史料批判を進めれば正しい認識に至ることができるという「実証主義」に対する批判は存在する。例えば、歴史家は「現在を生きる人間として、繰り返し過去に問いかけ、過去を読み直す」ため、特定の主観的な問題関心にもとづく視点から過去に接近せざるを得ないという考え方や、言葉が介在する限り、事実は分からない(=正しい認識に至ることはできない)ゆえに、歴史は物語にすぎないと考える構造主義の視点がある。このような批判を克服する上で重要なのが「コミュニケーショナルに正しい認識」だと小田中は主張する。これは「みんなのあいだで」「正しいに違いないという評価が共有されている」認識である。これを求めるのが科学であり、歴史学が科学であることの根拠だというわけである。


解釈においては、絶対的に正しい解釈が存在する保証はないという前提で、複数の考えられる物語(=歴史像)から1つを選択する必要が出てくるが、歴史像を選びとる際の基準は「正当性」であると小田中は主張する。正当性とは「どのように<事実>に迫りえているか、どの程度の説得力があるか、総じて歴史像が文書・記録・証言・物証などによってどれだけ論理的・説得的に構成されているか」という基準で測定されるという。つまり、歴史学は、歴史像の正当性を計る際に使える基準を供給し、それによって、歴史上のさまざまな問題をめぐる議論をよりよいものにしていくことができるし、そうでなければならないと小田中は言うのである。わたしたちのコミュニケーションをよりよいものにするために役に立つツールを歴史学が提供するのだというわけである。


まとめると、歴史学は、史料批判などによって「コミュニケーショナルに正しい認識」に至り、さらにそこから「正しい(=正当性のある)解釈」に至ることができる。こうして歴史の真実性(その時点でもっとも確からしいこと)の基準をくぐりぬけた知識を供給する仕事に取り組むとき、社会の役に立てる。ただし、歴史学は、直接に社会の役に立とうとするのではなく、真実性を経由したうえで社会の役にたとうとする。また、個人の日常生活に役立つ知識を提供しようとすることを通して、社会の役に立つということだというのである。