人生を豊かにする「歴史的思考力」

山本(2013)は、「歴史的思考力」は、人生を豊かにする教養となり、歴史を学ぶ最大の効用であると論じる。ここでいう歴史的思考力とは、現代に起こる事象を孤立したものとしてではなく、「歴史的な視野の中で考えていく」ということである。すなわち、現在、世の中で起こっていることは、事象そのものは偶然に起こったものかもしれないが、そのすべてに歴史的な背景がある。このことに留意できる歴史的な知識とそれを参照して考えられる思考力。そして、そもそも私たちの考え方自体も歴史的に形成されてきた所産だということに留意すること。これらを自覚することが「歴史的思考力」なのだと山本はいうのである。


山本によれば、歴史的思考力を身につければ、物の見方が豊かになる。つまり、物事を相対化して複眼的に見ることができる。個人の人生は長くても百年くらいだが、人類の歴史は文献でたどることができる時代だけでも何千年も続いている。その中には膨大な数の人生があり、出来事がある。こうした歴史を学べば、視野が飛躍的に広がることになる。逆に、歴史的思考力がなければ、一人だけの個人的な体験にのみ依拠してしまうため、往々にして一つの見方に凝り固まってしまう可能性がある。


では、このような歴史的思考力を磨くための素材となる、歴史学の考え方とはいかなるものであろうか。この点に関して山本は「歴史は科学である」という。つまり、歴史学では、ごく単純な史実を求めるのにみ、1つ1つ根拠を挙げ、一定の手続きに従った分析を行うことが求められているという。つまり、自然科学と同様に、歴史学も論理的で理性的な思考と判断が必要であり、科学的思考の積み重ねなのである。歴史学における科学性の根拠となるのが「史料」であり、史料においては、その信憑性、信頼性が常に問題になると山本はいう。史料の信憑性、信頼性を検討することを「史料批判」という。


史料批判の説明として、山本は刑事裁判の証拠調べを例として挙げている。例えば、物証であれば、それが本物であるかどうか、捏造されたものではないか、証人であれば、偽証をしていないかどうか問われるはずである。歴史学でも、ある歴史的事件に関する文書があった場合、それが原本であるか写しであるかが問われ、著者が直接の関係者なのか、風聞で事情を聴いただけなのかが問題となる。また、出所の全く違う複数の史料に、同一の事象について同様の記述があれば、その内容には説得力があるということになる。これは、相互に無関係な立場にある犯行目撃者の証言が複数得られることに例えられる。逆に、歴史研究において複数の史料から相反する記述内容が確認されれば、研究者は、証拠、証言を公平にみる裁判官のように、双方の史料を虚心坦懐に比較して結論を導いていく必要がある。


歴史研究者は、ある歴史事象を描き出そうとするときには、関係する史料を探し出し、それを正当に読み解いて「史実」を明らかにし、さらに個々の史実がどのような意味を持つのかを「解釈」し、さらに解釈の集積として、時代像や人物像を「イメージ」する。この「史実→解釈→イメージ』の流れも、裁判における事実の認定、犯行動機の認定になぞらえることができる。ただ、裁判では有罪無罪の判決が下されるが、歴史事象を完全に解明することは難しく、歴史研究の多くはあくまで「仮説」ということになる。