栗田(2012)は、思考すなわち「考えること」とは何かを検討する中で、考えることには3つの物差しがあると指摘する。それは、「深い−浅い」「広い−狭い」「鋭い−鈍い」といった軸である。つまり、幅が「広く」、表層的ではなく「深く」、そして「鋭い」アイデアなどはいずれも「優れた思考」の要素だといわけである。では、これらの3つの軸が高い「優れた思考」につながるのは何故か。栗田は、「想像力」こそがその決め手であると論じる。
思考の広さという軸は、身近な経験から獲得できる「比喩」「モデル」「アナロジー」といったものを大量に刷り込まれていること、そしてそれを現実に適用していく姿勢に左右されると考えられる。比喩やアナロジーの能力、すなわち物事を何か別のものに例えてみる能力は、想像力によって培われる。この現実にはこんなモデルが当てはまるのではないかと考えるのも想像力である。比喩、モデル、アナロジーをたくさん持っていればいるほど、想像力を働かせながらそれらを活用することが可能になるために、思考が「広く」なるのである。
思考の深さという軸は、「あるがまま見たままではない」目に見えにくい抽象的な層をどれくらい把握できているか、すなわち、物事の背後に潜む「より単純で統一的な説明が可能な層=物事の本質、全体性」といった層を見ているかといういうことが反映されていると栗田は言う。そしてこれは、「(表面的には)見えないものを見る力=想像力」によってもたらされる能力といってよいであろう。
思考の鋭さという軸は「言語が現実を映し出すには不十分であること」から来ていることを栗田は指摘する。思考が現実を捉えるさいに言語が不十分であるがゆえに、想像力を働かせながらデフォルメやメタファー、比喩などをふんだんに取り入れて、現実を模倣するようなうまい枠組みを作り出せたときに「鋭い!」と言われるわけである。例えば、本物よりも本物らしいようなかたちでその特徴を捉えるような考えや表現は「鋭い」と言われる。また、「鋭い」アイデアというものは、人間が意識している現実よりもはるかに多い「意識していない現実」を見出すことであり、これは常に(意識的には)存在しないものを見つめる想像力が働いているからこそ可能だというのである。
このように「優れれた思考」の基盤を形成するのは「見えないものを見る」ような想像力だと栗田は指摘するわけであるが、論理が重要ではないといっているわけではない。論理は、想像力を基盤として開かれていく思考の構造化、全体的な整合性を補助する道具であると指摘する。論理は大切なものに違いないが、「考える」行為の主要部分ではないのではないかと栗田は論じる。ただ、世間一般の人があまりにも「明らかに間違った」推論をすることが多いがために、論理的思考を重視する教育なり主張が増えたのではないかと指摘する。