フーコーの眼差しで現代社会を見る

高校の倫理の教科書(小寺[編」2011)では、フーコーについて、以下のような簡潔な記述がある。

フーコーは近代社会の生み出した知性には、人間を支配する規律の権力が潜んでいると主張し、近代批判を行った。近代社会は学校・軍隊・工場・裁判所・監獄をつくり、人びとをたえず監視して規律を教え込むことによって、彼らの考え方を型にはめ、規格化し、社会の権力に自発的に服従するタイプにつくり変えてきた。近代の知性には、人間を無意識のうちに拘束し、支配する規律の権力の構造が潜んでいる。・・・(中略)・・・ また、理性がみずからを正常なものと主張するために、合理性という規律をつくり、そこからはずれたものは狂気と呼ばれて社会から排除された。

このような考え方自体、異常であるとして日常の社会からは黙殺されたり排除されたりする可能性すらあるが、フーコーの眼差しで現代社会を眺めるならば、こんなこともいえよう。


いまや世界の多くでは、資本主義経済が浸透し、日本においても、人々の生活は資本主義経済体制の中に組み込まれてしまっている。組み込まれてしまっているということは、フーコーがいうように、人々の行動がたえず監視され規律を教え込まれることによって規格化され、支配されている状態に等しい。


例えば、都会のサラリーマンである。朝の満員電車は皆不快である。できればそんなものに乗りたくはない。しかも夏であってもネクタイを締めねばならなかったりする。それでも、人々は毎朝満員電車に揺られ、夜中まで残業をし、どっぷり疲れて帰宅する。風呂に入り、ビールを飲んでテレビをちょっと観て、寝る。こんなことを繰り返す。日本のサラリーマン社会の規律ではそれが「正常」である。「業績さえ上げていれば何をしてもよいでしょう」と言って平日にカフェで読書をしているような人は「異常」なのである。「業績さえ上げていれば」というのもすでに資本主義社会の規律に従っているわけで、仕事もせずぶらぶらしている人がいれば、「狂っている」ということになり、そのような人は社会から隔離されることになるだろう。


このように資本主義経済システムに組み込まれた「正常な」人として毎日をあくせくと働いている人々は、この世にいったい何を生み出しているのだろうか。人々を幸福にするために貢献しているのであれば救いようがあるだろう。人間を不幸にする仕組みを強化しているのならそれは悲しいことである。便利な製品やサービスを生み出し、原発を作り、人々の購買意欲をますます刺激して欲望をエスカレートさせ、製品をさらに作って売る。人々の購買意欲や欲望でさえも、巨大な社会構造の管理下にありはしないか。良い生き方とはこういうものだと洗脳され、無理やり購買意欲を喚起させられてはいないだろうか。それによって常に買い替えが行われ、古い製品は廃棄されて巨大なゴミと化し環境を破壊する。企業はもっと製品を作って売るために自然を破壊する。さらには天災が人災を生み、放射能を撒き散らす。フーコーならばそんな視点で現代社会を見つめていたかもしれない。