「人間の時間」と「神の時間」

茂木(2005)は、私たちの存在するこの世界の根本的な性質でありながら、いまだに正体がつかみきれていないのが「時間」であり、時間ほど「生きる」ということの個別性と結びついているものはないと指摘する。「私」という特別な存在、体験の真ん中に「時間」があるのだという。私の「意識の流れ」の中の時間の進行は、決して後戻りできない。つまり、人生とは、引き返すことのできないすべり台を落ちているようなもので、いつかはドスンと終わりが来るのを知りつつ、懸命にあがいているようなものだという。その「あがき」の舞台が、人間の生きる時間である。私たちの意識の流れの中では「今」が明らかに特別な時間として「私」に感じられている。「今」を感じる時間感覚によって「私」が絶対的な存在であると確信できるのが「人間の時間」であるという。


一方、「科学的世界観」は、私たちのとって特別な「今」に依存せず、宇宙の前歴史を一気に見渡してしまうような「神の時間」に基づいて自然法則を書いてしまう。科学的世界観のもとでは、無限の過去から未来まで続く「神の時間」の中に、生まれてくる前は「私」は存在しないし、死んだ後も「私」は存在しない。私の時間は誕生とともに生まれ、死とともに消えるだけで、前世や死後の世界は全否定される。このような世界観は、「科学は冷酷である」という印象につながり、また「何をやっても結局は物質のふるまいとしては同じなのだ」という究極のニヒリズムにつながると茂木は指摘するのである。


世界の他の何ものにも代えることのできない、代替不能な「一人称」の存在としてこの世にある「私」にとって、科学的世界観は残酷なのである。どこか割り切れない思いは否定できず、これが科学的世界観から見る「神の時間」と、私たち一人ひとりから見る「人間の時間」のズレにつながっているという。私たち一人ひとりにとっては、永遠に心理的現在にとじこもりながら、さまざまなものを「今」に引き寄せようとする努力ないしは「あがき」が行われており、それが、現代科学では「勘違い」として片付けられてしまうような、さまざまな宗教的、哲学的概念を生んできたのだと指摘する。