数学の深淵な世界

数学はそもそも、数の神秘性にひかれてスタートしたものだと思われる。古代の人は、数の世界にこそ、この世の中の不変の「真理」が潜んでいると信じ、数学に取り組んで来た。ピタゴラスの「万物は数である」という言葉にもそれが表れている。数学は「この世の真理を探究する学問」としてスタートした。神に最も近い学問であったかもしれない。真実を知りたい!というのは人間の崇高であるだろうが貪欲な一面なのだろう。


しかし、数学を探求する数学者によって、その夢がはかない幻想であることを自ら証明してしまうことになる。数学が生み出した公理系の理論展開や、背理法数学的帰納法などによって明らかになる。ところが、それが数学を衰退させるどころか、逆に19世紀における現代数学の爆発的な発展につながることになる。その例が、非ユークリッド幾何学に代表される公理数学である。公理系では、明らかに正しいとされる公準から出発して、次々と定理が導かれ、全体の体系となっている。よって、幾何に関するすべての知見は公準に還元可能であるため、まさに真実の体系だと感じられる。


ところが、非ユークリッド幾何学の出現によって、それは単に公準という正しいかどうかは問わない「仮定」をおいた場合に、それ以降の議論に内的整合性が保たれていることを吟味しているにすぎないということになってしまった。だから、数学が真実とつながっているということ自体が幻想で、出発点の公準からして、それは人間がそれを正しいと思う感覚、判断に負っていることになってしまった。そうすると、数学の真実性は数学そのものでは証明できないわけである。数学は真実を映し出す鏡なのではけっしてなくて、ある仮定から出発して全体を組み立てていくという、人間がつくりだしたモデル「公理系」を調べる学問になってしまった。自然数から複素数に至る、数概念の拡張を見ても、数そのものが、この世に実在するものではなく人間が作り出した計算できる記号に過ぎないということも明らかになってきた。


代数学は、エッシャーの「だまし絵」にも似ている。部分のどこを見ても、不整合なところは見つからない。すべてが内部整合的なのに、全体をみると現実にはありえない世界が描かれている。現代数学もそうである。公理系である以上、どこを見ても論理的に整合している。しかし、最初に現実として受け入れがたいような公準を設定しても、内的に整合された広大な世界が描けるのである。しかし、公準が非現実的に思えるものであれば、その広大な世界も非現実的に「感じられる」。それが正しいかどうかは数学では証明できない。


そうなることで、逆に「数学が真実とつながっていなければならない」という制約がはずれ、逆に、自由奔放に数学できるようになったのだ。そうすると、今度は数学が「人間の認識能力に対する永遠の挑戦」ということになった。これがものすごく奥深く、つぎからつぎへと驚異的な発見が得られるようになったというのが、現代数学の爆発的発展というわけである。現代数学は、宇宙をも取り囲んでしまうかもしれない人間の論理的思考の広大さという、その扉を開けてしまったのだ。