フーコーの功績

内田(2002)によるフーコーの業績のわかりやすい解説によると、世界は私たちが知っているものとは別のものになる無限の可能性を秘めたものであると解釈するならば、歴史の流れというのは、さまざまな可能性が排除されて、どんどんやせ細ってきたプロセスであるとも解釈できる。そこからフーコーは、「これらの出来事はどのように語られてきたか」ではなく「これらの出来事はどのように語られずにきたか」という問いを立てる。なぜ、ある種の出来事は選択的に抑制され、黙秘され、隠蔽されるのか。なぜ、ある出来事は記述され、ある出来事は記述されないのか。


そのためにフーコーは、歴史を「生成の現場」にまで遡行してみることによって「常識」を覆してきた。例えば、精神病患者が囲い込まれ、社会から隔離されること、すなわち「正気」と「狂気」が科学的用語を用いて厳密に分離可能だということは近代になってはじめて採用されたものであることを明らかにした。「狂人」は、近代以前は、共同体内部の身近にいることが自然であり、一定の社会的役割を果たしてきたのである。これは、社会から「狂人」のための場所がなくなって彼らが組織的に社会から排除され、社会が「標準的な人間」だけが住む場所になってきたことを意味しており、それは、「知と権力の結託」によって、(標準的でない人間を組織的に排除することにより)人間が「標準化」されてきたプロセスを反映しているということを指摘したのである。