構造主義とは何か

内田(2002)は、現在は思想史の区分でいえば「ポスト構造主義」の時代だが、それは構造主義の時代が終わったという意味ではなく、構造主義の思考方法があまりに深く私たちのものの考え方や感じ方の中に浸透してしまったがために、その発想方法そのものが私たちにとって「自明のもの」になってしまった時代だという。つまり、ポスト構造主義の時代を生きることは「構造主義を『常識』とみなす思想史上の奇習の時代」を生きているということだと言う。


では、構造主義とは何か。それは、私たちは常にある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定しているので、私たちは自分が思っているほど、自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない、という考えである。つまり、私たちは自分では判断や行動の「自律的な主体」であると信じているけれども、実は、その自由や自律性はかなり限定的なものである、という事実を徹底的に掘り下げることが構造主義の方法なのだと内田は説明する。


内田によれば、「構造主義の父」とされるソシュールは、言語学講義を通じて「あるものの性質や意味や機能は、そのものがそれを含むネットワーク、あるいはシステムの中でそれがどんな「ポジション」を占めているかによって事後的に決定されるものであって、そのもの自体のうちに、生得的に、あるいは本質的に何らかの性質や意味が内在しているわけではない、という。そもそも言語活動とは「すでに分節されたものに名を与えるもの(カタログ的言語観)」ではなく、もともとは切れ目の入っていない世界に人為的に切れ目を入れて、まとまりをつけることであり、名前がつくことで、ある概念が私たちの思考の中に存在するという。