「善悪」と「損得」の人事論

人間の行動の背後にある動機としては、「善悪」と「損得」の2つがある。そして、普通、われわれはどちらの要素も持っている。善悪のみで判断し、損得を度外視した行動をとる人は稀であり、逆に、損得のみで行動し、善悪を無視する人も稀である。だから、経済学が仮定するように、人間を損得勘定で行動する主体であると考えるのも一理あるし、倫理的観点から、あるいは精神論として経営を語ることも一理あるのである。


ただし、企業経営を考える場合、自社の社員が、主に「損得」に基づいて行動することは、経営を難しくする。管理を工夫することによって、損得勘定で動く人々をうまく組織目標に沿ったかたちで行動させることは、経済学の世界では可能であると考えられているが、ともすると、損得勘定で動くことを当たり前とする仕組みが、自分さえよければよいという行動につながり、企業の不祥事や事故につながったりする。企業としては、できるだけ社員には善悪の判断で動いて欲しい。ここで何をするのが正しいのか、何をしてはいけないのか、という視点で、動いてもらえれば、不祥事や事故は減らせるかもしれないし、真に顧客を喜ばせる経営、市民社会に貢献する経営につながるかもしれない。もちろん、何をもって善(正しい)とするのか、何をもって悪(間違っている)とするのかについては、企業としてしっかりと判断基準を持っておく必要がある。これが企業理念であり経営哲学である。


では、損得勘定に基づく行動をできるだけ抑制し、善悪判断で動く行動を増やすにはどうすればよいのだろうか。2つアプローチがある。第一は、個人差を利用する手だ。人間は、「善悪」「損得」の両方の行動動機を持っているが、どちらかが片方よりも強い人が存在する。例えば、どちらかというと「善悪」に基づいた行動をとる人間、どちらかというと「損得」に基づいた行動をとる人間である。そこで、採用の時点で、この違いを測定し、行動に善悪判断を優先させる人材、つまり倫理的で誠実な人材を採用していくことである。そうすれば、組織のメンバー全体が、損得勘定のみで行動を起こしにくい人々で構成させることになる。そうすれば、企業理念・経営哲学からみて、正しい、善い方向に行動しようとする企業風土が生まれてくる。


2つ目は、人事制度の設計において、人間の持つ「損得勘定」を活性化させる制度設計を避けることである。例えば、成果に応じて賃金を上下させるとうい施策は、馬の目の前にニンジンをぶらさげるのと一緒で、人間のもつ本能(目の前のお金に目がくらむ)を刺激してしまう。そうすると、短期的に損得勘定で行動する人が社内に増えてしまう。もちろん、成果主義を否定しているわけではない。企業理念の実現に貢献した人々(もちろん、そこにはゴーイングコンサーンを可能とする適正利潤の追求を含む)を褒め称えるような成果主義ならばよいが、単に、個人の損得勘定を刺激し、個人の利潤を最大化することを奨励するような制度であってはいけないということである。人間が本来もっている、損得勘定に基づく動機をできるだけ活性化させないようにすると同時に、経営者の崇高な夢(ビジョン)や、経営理念などを社内に流布することによって、「善悪」による行動的動機を活性化させるのである。われわれの夢を実現するために、正しいことを行う、という意識を社員に持たせるわけである。