成果主義でなくても従業員ががんばる仕組み


成果主義は、従業員の努力をひきだし、それによって企業業績を高めるという理念が基本にある。しかし、成果主義でなくても、従業員の努力を引き出す仕組みがないわけではない。それは、かつての日本的な労働環境であったのだ。なぜかつての日本人は働きバチと海外から揶揄されるほどがんばって働いていたのか。


基礎に帰って考えよう。従業員から努力をひきだすポイントは、望ましい努力の方向性や水準を示したさいに、従業員がそれを拒むことなく受け入れるかどうかである。成果主義の場合は、業績インセンティブを用いることによってそれを実現する。では、業績インセンティブを用いない場合はどうか。従業員が努力への支持を拒むのはどういう場合かを考えればよくわかる。ひとことでいえば、拒まず努力をすることによるコスト(苦痛など)よりも、拒んだ場合に自分が支払うコストのほうが軽い場合である。具体的に言えば、自分にとって苦痛である追加的努力の指示がでた場合、単にサボったり、会社を辞めて転職することによって、それを逃れる手段が存在する場合である。


かつてのわが国の労働環境は、努力への支持を拒む場合のコストが非常に大きい環境であったために、わざわざ成果主義的なインセンティブを用いなくても、追加的努力への指示をしさえすれば、従業員がそれに従って必死でがんばることを可能にしていたのだ。それは何かというと、失業することによって自分が支払う代償(コスト)である。


自分が会社の指示に従って努力することを怠り、現在の職を失うことのコストが大きすぎたのである。転職市場が発達していれば、同じような給料の仕事を見つければよい。同一職務同一賃金が成立していたり、自分の能力に見合った報酬が与えられる状況であるならば、今の職を失ったとしても、転職先でも同じような収入を期待できるので、損失は大きくない。しかし、日本の場合は、特に大企業では中途採用はレアケースで、中途採用労働市場が未成熟であった。だから、失業した場合にはなかなか次の職が見つからず、見つかったとしても現職よりも大幅に収入がダウンする可能性が高かった。また、新卒で会社に入り、定年まで勤め上げるというのが標準であった時代に転職をするということは、会社で使い物にならなかったとか、何か事を起こしたとか、脱落者としてのネガティブな烙印を押されることにもなり、それがいっそう、再就職に不利に働いたのである。


であるから、少しぐらい辛くても会社の指示にしたがってがんばって仕事をしたほうが、それに逆らって職を失うよりは得であるため、年功序列であまり差がつかない賃金制度のもとであっても、人々は一生懸命働いたと考えられるのである。


ただ、当然のことながら、会社の指示を拒んで努力しないことのコストが高くなくなれば、従業員はあまり努力をしなくなってしまうことになる。その例が、従業員が、会社からそう簡単に解雇されないだろうと思っている場合や、監視が甘く、サボっていても見つからない、隠れて手を抜くことができる環境にある場合や、従業員同士が結託して全員で手を抜くことによって、自分だけ失業するリスクを抑える場合や、比較的転職市場が発達してきて、現在の仕事を辞めて転職してもあまり損にならない環境になった場合である。そうなれば、固定的な報酬のもとでは、必要最小限の努力ですまそうというのが本人のとっても合理的であり、追加的な努力の要請に従う理由がなくなってしまうのである。