http://www2.chuo-u.ac.jp/econ/anniversary100/lecture_summary_03_01.html
キヤノンは1937年(昭和12年)に4〜5人のカメラ好きの人たちが創立した、今で言う、いわゆるベンチャー企業であります。その創業者たちの一つの生き方というものが、キヤノンの今日現在まで続くDNAといいましょうか社風になっております。
また、社員たちが幸せで安心して生涯を暮らせる会社をつくろうじゃないかというのが彼らの理想でありました。・・・そして、先ほど言いましたように、社員が一生安心して暮らせるような会社ということで、人間尊重主義という思想を持った会社でありました。それは社訓にあらわれております。「実力主義」「新家族主義」「健康第一主義」、この三つが社訓であります。また、行動を律するもの、つまり行動規範としては「三自の精神」、つまり「自発・自治・自覚」というものが挙げられております。これは大変おもしろいことで、大体メーカーでありますと、「技術を磨いて社会に貢献する」とか、あるいは文化の高揚に役立つとか、そういったことを社訓にするものですが、このキヤノンの三つの社訓と行動規範は、考えてみると、全て自分の社員たちのことを考えた社訓であります。そこが普通の会社と違うところだと思います。
「実力主義」といいますのは、人間主義の発露だったと私は思います。「実力主義」がなぜ人間主義かといいますと、人間というのは、動物の中で唯一向上心を持った動物であります。その向上心を発揮して努力する人たちを公平に報いよう、決して学歴や学閥や閨閥等々で差別をすることなかれ、そういった思想で、全く当時から学歴無視の会社でありました。
・・・したがって、我が社は大体40歳ぐらいでトップの人とそうじゃない一番下の人とは大体給料で倍ぐらい違います。これは男女に関係がありません。そういうふうに徹底的に実力主義の政策を貫いているということです。それが会社を非常に活性化しております。
1967年に多角化を宣言しても、それから10年ぐらいは、うまくいかなかった。それは組織が多角化に向いていなかったのです。カメラ単一の文化ではどうしても中心であるカメラに人も資本も集まっていく。そして、新しいディヴィジョンには、あまり人もお金も回っていかない。だから、人も育たないというような状態でした。これを試行錯誤の上、77年、ちょうど10年ぐらいたったときに、キヤノンは事業部制を取り入れました。組織論からいけば、分散型の権力構造です。いろいろな部門に各々専門の責任者を配置して、責任分担制、つまり権限分散型の組織に変えたわけであります。このおかげで、多角化と事業部制がうまくマッチして、80年代の10年間、高い成長率を誇る、会社として存在することができたわけであります。
今度は逆にその事業部制が次第に劣化してきました。組織において、どんな制度でも必ず年月がたちますと制度疲労を起こすもので、キヤノンの事業部制も制度疲労を起こしてきました。・・・全体のことを考えませんから、赤字の事業も赤字のままで、さらにそれをよくしようとしてもがき苦しんで赤字がさらに増えていく。そして、全体として会社が劣化していくというような現象が起こりました。
部門がばらばらでしたので、「部分最適から全体最適へ」と考え方を変えていこうとしたわけであります。つまり事業部の都合よりは、会社全体の利益が優先するんだということを徹底的に説いて回りました。そのことを実行するためにまずいろいろな壁を破らなければなりませんでした。二つ壁がありました。一つは、本社と子会社の関係です。・・・それで、私はその壁を破るために連結決算重視を打ち出しまして、連結決算による連結評価というものをいたしました。・・・もう一つは、事業部間の壁をなくすために各々の事業部長に、自分のラインの仕事以外に、会社全体の横断的な仕事をさせることにしました。