カイシャ幕藩体制とグローバリゼーションの影響

冨山(2012)は、すでに1990年代ごろから、旧態依然としたシステムをかなり大きくかき回して再構築しなければならない時期に来ていたという。旧態依然としたシステムとは、官庁と大企業を頂点とする「カイシャ幕藩体制」である。実際、冨山の大学時代には、新卒でキャリア官僚になったり大手企業に入ったりすると「寄らば大樹」の生活がざっと40年続くといわれていたが、想像したよりも、カイシャ幕藩体制の崩壊とグローバリゼーション進展のスピードは速かったという。


カイシャ幕藩体制では、学歴と就職先と収入がワンセットで上の階級を形成していたと冨山は指摘する。カイシャ幕藩体制では、同質的なペーパーテストに強い遺伝子資質と訓練機会を保証する経済力が働くゆえ、親の持っている優位性が子供にもそのまま優位に働きやすいというゲームが固定化したかたちで、社会が安定してしまったという。


また、日本企業は、生涯雇用型であり、共生型、共同体型のムラ組織社会であると冨山はいう。戦後、古い村落共同体が崩壊するなかで、会社組織がその受け皿となって、カイシャという新たなムラ社会が形成されたというわけである。したがって、倒産に対してかなり無頓着なシリコンバレーや中国などと異なり、日本では会社が実質的な共同体になってしまっているので、倒産することはすなわち、共同体を壊すことに直結する。日本で倒産が増えるということはみな罪悪のように思ってしまい、債権者である金融機関も安全装置として頑張らなければならないというのである。


従業員の働き方にしても、「自分は一生この会社に仕えます」とう黙契を前提とし、カイシャというムラ社会になじむことが何よりも優先されてしまう。ムラの習わしに従って村長からかわいがられ、やがて引っ張り上げてもらおうとう行動様式になってしまう。そうなると当然失敗を恐れる。実際のビジネスによる勝ち負けよりも、仕事の過程においてムラの調和を乱したかどうかのほうが気になってしまうのである。したがって、日本の企業社会は失敗に対して非常に不寛容で、新規事業を立ち上げて失敗したりすると二度と立ち上がれなくなってしまうと冨山はいう。


日本では経済全体としては資本主義だが、会社の中では社会主義的な仕組みで成り立っていると冨山は指摘する。年功序列でポストが上がり、カイシャ内の序列によって役員会の席順もオフィスで自分が座る位置も決まってくる。また初任給と社長の給料の差もせいぜい10倍から15倍と、たいして大きくなく、これらの社内体制は旧ソ連や少し前までの中国共産党と変わらないという。こういった仕組みが成り立っていたのは、自動車や電機など、大量生産型の組立産業に非常にフィットした仕組みだったからである。このような産業では、能力の均質性が求められ、仕事の速い人が遅い人に手を差し伸べるような「助け合い」が重要であるなど、日本が古来からやってきた稲作農業に近い世界であったからである。


しかし、グローバリゼーションが進展した結果、日本のカイシャの仕組みは成り立たなくなっていると冨山はいう。例えば、そこそこ資本装備された労働集約型産業が新興国にシフトし、大量生産型の組立産業はもはや日本の主力産業ではなくなってしまった。アメリカでも西欧でも、知識集約型産業が経済の中心となり、IT業界でも投資業界でも、あるいは弁護士や医者など高度な専門職でも、生産性の高い人は非常に大きな付加価値を出す。知識産業では、こういう突出した人を大切にしないと、会社全体も競争相手にやられてしまうという。つまり、狩猟活動において先頭で獲物に追いつく人が最も大事なのと同じである。集団についていけない人に関わっていると全員が飢えることになる。したがって、必然的に収入の差が広がってしまうとうのがグローバリゼーションの影響なのだと冨山は示唆するのである。