非線形性としてのサービス&ホスピタリティ

サービスやホスピタリティには、モノ的世界観に基づくものと、コト的世界観に基づくものがあると考えられる。モノ的世界観は工業化との繋がりが強い。工業化が世界経済を飛躍させ人々の生活を豊かにしたことは紛れもない事実であり、モノとしての製品を大量生産して消費者に届け、消費者がそれを購入して消費するという工業の発想をサービスに拡張したものが、モノ的世界観によるサービスである。であるから、モノ的世界観によるサービスは、モノを作って配達するかのようにサービスを生産して顧客に届けるという発想が伴う。生産と消費が同時に行われるというサービスの特徴はあるが、消費者がモノとしての製品に求めるように、全てのサービスにおいて、同一で安定した品質を提供しようとするものである。非製造業は全てサービス業であると理解するならば、工業化時代の産物として、このような発想に基づくサービスが世の中に多いことは理解できる。


例えば、製品としてのスマートフォンや自動車が、同じ品番あれば全て同じスペック、同じ機能、同じ品質であることが求められるように、モノ的世界観に基づくサービスは、いつ、どこで、誰から(何を通じて)それを受け取っても、期待通り、設計通りの同じ内容を伴ったサービスであることが重要である。つまり、あらかじめ設計されたサービスを設計通りに生み出して顧客に提供するということである。一方、コト的世界観に基づくサービスやホスピタリティはそれとは根本的に発想が異なる。すなわち、サービスやホスピタリティは「モノ」ではなく「出来事(コト)」である。ある特定の場所・時間、特定の関係性において一回きり生じる、唯一無二の「体験」「出来事」だと捉えるのである。


モノ的世界観に基づくサービスでは「線形性」が基本となるのに対して、コト的世界観に基づくサービスやホスピタリティでは「非線形性」が基本となると考えられる。まず、線形性という特徴は、機械的で工業化時代に適したコンセプトである。世界や組織、製品、製造プロセスなどを整然と理解することを可能とする。例えば、製造能力を2倍にすれば、生産量が2倍になる、労働時間を2倍に増やせば、アウトプットが2倍になるという塩梅である。線形性に基づいたマネジメントは、同じ品質、形体の製品を、欠陥なく正確に大量生産するといったものに適している。Xを1単位増やすと、Yがどれだけ増減するかといった関係が分かりやすいので、製造プロセスや労働プロセスをコントロールすることでアウトプットをコントロールするという発想につながってきた。要するに、マネジメント=コントロールという発想につながっているのが、機械論的な世界観と、それを支える線形性というわけである。


したがって、モノ的世界観に基づくサービスにおいては、線形性の発想を生かすことで、いかにして均質かつ高品質なサービスを安定的に顧客に提供するための仕組みを構築し、サービスの品質をコントロールするかがマネジメント上の大きなポイントとなる。別の言い方をすれば、提供されるべきサービスは、それを扱う従業員の個性や個人差などに左右されてはいけない。誰が扱っても同じ内容のサービスであるべきなのであって、顧客からもそれが求められているのである。そう考えるならば、この種類のサービスは、人間によるサービスから、デジタル化されたメディアや端末、AI、機械、そしてロボットなどを通じたサービスに置き換わっていく可能性もあることが理解できるだろう。これらは人間よりも線形的な発想でコントロールしやすい対象だからである。


一方、コト的な世界観に基づくサービスやホスピタリティの本質は非線形性にあると考えられる。非線形性の場合は、線形性と異なりその振る舞いの予測が難しく、カオス理論のように創発現象も見られる。数学的には決定論的である決定論的カオスであっても、人間には理解し難い姿が次々と生み出される。人工物や工業製品の世界と異なり、自然現象や生命は線形でなく非線形の世界である。直線ではなく渦巻き模様に代表される。気象や台風のように、全く同じものは1つとして現れない。全て異なるが、類似したパターンは見られる。


非線形性がもつ性質は、出来事(コト)であるが故に、1つ1つが唯一無二で全て異なるというサービスやホスピタリティの特徴と対応している。異なっていても、そこにはある種のパターンが見られるので、そのパターンによって、「○○らしいサービス」という特定が可能であるわけである。例えば、スターバックスの店員によるサービスは、顧客によって、店員によって、状況によって異なるだろうが、それらに何となくスターバックスらしさを感じるとするならば、それこそが、非線形性な振る舞いにおいて創発する何らかのパターンがあることを示している。


コト的世界観に基づくサービスやホスピタリティがもつ非線形的な特徴を、どう解釈してサービス&ホスピタリティ・マネジメントに活かしていけばよいのだろうか。まず、人間にとって予測不能ということは、コントロール不能であることを意味するから、マネジメント=コントロールという発想をいったん捨てなければならないだろう。誰に対してもいつでもどこでも全く同じサービスやホスピタリティが提供されるということがあり得ないということは、ものづくりのように均質なサービスを厳密な管理を通じて作ることはできないということであるから、工業製品であれば致命的な問題ではある。しかし、コト的世界観にたてば、モノではなく無形の価値を生み出すサービスやホスピタリティでは、全てのサービスが均質で同じである必要はない。


そもそも無形のものに均質とか同じという概念が成り立つのかという哲学的な問いも立てられよう。おそらく、サービスを提供する側も、サービスを受ける側も、モノ的世界観でそのサービスを理解していれば、そのサービスは名実ともにモノ的世界観のサービスとなる。この場合は、顧客は、均質的で同じサービスが存在すると信じているから、どのようなサービスを受けるのかが事前に予測できるし、かつ予測どおりのサービスを受け取ることで満足度が最大化する。そこに予想外の驚きはないが、モノ的世界観であればそれでよい。iPhoneをお店で購入してみたら、自分が予想していた製品とは全然違っていて驚いたということが生じたら、モノの世界では欠陥とか失敗ということになるのである。


一方、サービスを提供する側も受ける側もコト的世界観でそのサービスを理解していれば、1人ひとりに対するサービスは異なっていて当たり前という発想になる。非線形的なカオスのモデルや数式から新たな現象が創発するように、安定していない、1つ1つが異なる、何かが創発するといった現象は、欠陥ではなく、むしろ、サービス&ホスピタリティにおける「創造性」の源泉だと考えられる。つまり、「伝説のサービス」「真実の瞬間」はそこから生まれるのだと思われるのである。これが、工業製品を模したモノ的世界観に基づくサービスとは異なるところである。製造される工業製品であれば、求められるのは全て同じ内容だから、伝説の1品が突然生まれるということはない。モノ的世界観が機械論的である一方で、コト的世界観に基づいたサービス&ホスピタリティはより人間的であり、自然や生命に近く、その本質は非線形性であると考えられるのである。


この非線形性を対人的な接客場面を例として用いて説明すると、人間同士の相互作用の中では、自分が誰かにやったことが何らかの形で跳ね返ってきて、それがさらに相手に対する振る舞いに影響するといったようなフィードバックループが生じる。さらに複数のアクターがそのプロセスに関わってくると、もはや線形性では説明できない現象となり、非線形性の特徴、例えば、カオスや複雑適応系が持つ特徴を生み出す。これは、自然現象や生命現象においても、さまざまな要素の相互作用によって非線形的な特徴が観察されるのと同様である。


この非線形性で重要なのが、全くのランダムな混沌状態ではなく、かといって線形性が想定するような整然とした秩序が存在するわけでもないという点である。強いて言えば、ランダムな混沌と整然とした秩序の中間のような振る舞いであって、その原因の1つが、各要素がある程度自律性を持って動きつつも、他の要素と相互作用を行なっているという点にある。例えば、顧客から見れば、どのようなサービスを受けるのかは大まかには予測できるが、実際に受けてみて、良い意味で期待を裏切られる(素晴らしい)おもてなしをされるということが起こり得る。サービスを提供する側から見ても、基本的にはお客様に対して提供するサービスの内容は決まっているとしても、実際にお客様と会ってみてから、アドリブで変える部分もある。それはどのようなお客様なのかによるし、その場になってみないと分からない面がある。


以上から、サービスやホスピタリティを機械的ではなく人間的な営みであると捉え、サービスやホスピタリティを提供する従業員とそれを受ける顧客との相互作用がサービスのクオリティを決定づけるのだと考えるのであれば、さらに言えば、サービスの提供者と受け手の両者を含むひとつの「場」としてそこに立ち現れてくる何かをサービスとして捉えるのであれば、非線形性こそがその本質であり、非線形性について深く理解することが、感動を呼ぶサービスや伝説のサービスを生み出すメカニズムを理解することにつながるであろう。

社会システムの全域化がもたらすヒューマニズムの危機

宮台・野田(2022)は、現代の社会が「安全・快適・便利」を追求してきた結果として、「汎システム化=社会システムの全域化」が進行しており、それが、伝統的な「生活世界」を侵食しているが故に、私たちは多くのものを失いつつあると論じる。そして日本をはじめとする世界各国で「社会の底が抜けた状態」が進んでいるという。それはどういうことかというと、現代社会において、「安全・快適・便利」を追求する人々の合理的な判断と行動が集積した帰結として、孤独死や人間関係の希薄化、感情の劣化などに示されるように、私たちの人間性の喪失すなわち「ヒューマニズムの危機」が訪れているということである。

 

宮台・野田の主張が理論的に依拠しているのは、社会学における社会システム理論である。社会システム理論は、ウェーバーの枠組みを出発点としてパーソンズらによって打ち立てられ、その後ハーバーマスの展開を経てルーマンによって高度な理論枠組みに彫琢されたものであり、社会システム理論によって社会変容のメカニズムやプロセスを理解することが可能になるという。宮台・野田は、ハーバーマスルーマンによって提唱された「生活世界」と「システム世界」を対立概念と捉える。

 

宮台・野田によれば、生活世界とは「地元商店街的」なもので、関わる人々は顔見知りであってそこでのコミュニケーションは顕名的・人格的・履歴的であり、共同体意識・仲間意識を基本とする慣習やしきたりを重視する。一方、システム世界は「コンビニ的」なものであって、関わる人々やコミュニケーションは匿名的・没人格的・単発的であり、慣習やしきたりではなくマニュアルに従って役割を演じることが重視される。生活世界では人間関係が全体的・包括的であって善意と内発性に従って行動するのに対し、システム世界では人間関係は部分的・機能的なものであって損得勘定だけで行動する。

 

では、宮台・野田が主張する、社会の汎システム化=社会システムの全域化とはどのようなもので、なぜ起こっているのだろうか。まず、私たちの社会の「安全・快適・便利」が高まってきたのは、市場経済という社会システムが発達し世界に普及したという要因によることが大きいことを理解しておく必要がある。そして、市場という仕組みに支えらえれるシステムが世界に普及することによってもたらされるのは「過剰流動性」と「入れ替え可能性」である。例えば、市場では価格という統一基準が定まればさまざまなものが価格を基準に交換可能となるから、モノや人の流動性が高まるのである。また、価格が唯一の交換基準となるから、取り替え可能性も高まるのである。

 

市場経済を中心とする社会システム化が進行することで「安全・快適・便利」の度合いが高まっていく。そしてさらに社会の「安全・快適・便利」の度合いを高めようとするのは人間の合理的な判断・行動であって、その結果、システム社会の全域化が進展する。このような社会システムの普及・汎化もしくは全域化は、一見するとそれは私たちの暮らしを豊かにしているように思う。しかしそれは同時に、私たちがそのようなシステムへの依存度を高めていることを意味している。たとえ最初は、自律的に社会システムを「利用」しているに過ぎないとしても、次第にそれが、システムなしでは暮らせない状態に発展し、システムに依存するようになる。そして人々は次第にシステムの一部と化し、システムの奴隷になってしまうことを宮台・野田は示唆する。

 

このように、汎システム化の進行によって、社会と人間関係が本質的に変容している。生活世界が色濃く残る社会では地域共同体のかけがえのない一員であったはずの自分が、いつの間にかシステムが生み出す過剰流動性の中で、取り替え可能な部品になってしまったような感覚に襲われると野田はいう。「安定・快適・便利」を求める私たちの合理的な判断と行動の積み重ねが、人間同士の関係性を根本的に変化させ、私たちの精神的安定性を失わせているのである。短期的な便益を享受するために意図的にシステムに依存する自律的な行為が、気がつけばシステムなしには生きられない他律的依存に頽落しているのだ。

 

宮台・野田によれば、テクノロジーの進展は、世界レベルにおける社会システムの全域化に拍車をかけている。人々が、「安全・快適・便利」に対する強い欲求を持っている以上、この流れを止めるのは困難だという。社会システムの全域化によって生活世界の空洞やそれに伴う人間の感情の劣化も避けられない。感情が劣化し、システムの奴隷に成り下がることは、人間でありながら人間らしさや主体性を失い、単に快・不快といった動物的な性質に従って行動するようになる。そしてそれをテクノロジーやAIが巧みに利用することで人間を統治するようになるだろう。これはすなわちテクノロジーが神格化する一方で人間が動物化していくことを意味していると宮台・野田は警鐘を鳴らす。

 

では私たちはどうすれば良いのだろうか。宮台・野田は、構造的な問題の解決は容易ではないことを認めつつも、漸進的な変化による現実的な処方箋を重視する社会学の立場に立つ。そして、私たちがシステム世界やテクノロジーと共存しつつも、共同体自治を基本とする中間集団の充実を軸に、人間同士のつながり、人間らしさ、生活世界を取り戻すための幾つかの処方箋を提案している。

文献

宮台真司・野田智義 2022「経営リーダーのための社会システム論 構造的問題と僕らの未来 (至善館講義シリーズ)」光文社

 

 

価値獲得を基点にする利益イノベーション

川上(2021)は、企業には価値創造活動と価値獲得活動の両方によって持続的な存在が可能となるわけだが、企業の取り分を決める「価値獲得」から先に考えることによって利益イノベーションを生み出し、それによってさらに価値創造のイノベーションにもつなげていくというロジックを提案する。そのロジックを支えるのが、収益の多様化という発想である。収益の多様化という発想は、主要なプロダクトを通じて顧客への価値創造を行い、主要なプロダクトの適正な価格づけを通して利益を獲得するという伝統的あるいは平凡な考え方の枠をはみ出す発想であり、生み出した価値創造をベースとしながらも、主要プロダクトに限らずあらゆる形で自在に収益を生み、利益を極大化する方法を考えることである。

 

川上によれば、企業の取り分としての価値獲得から先に考える収益の多様化や利益イノベーションを実現することによってビジネスモデルを大きく進化させることが可能となり、それを通じて価値創造のイノベーションも実現できるようになると考えられる。収益の多様化を通じた利益イノベーションを実現するための要素としては、課金というコンセプトを軸にして主に3つあると川上は指摘する。それらは、1)課金ポイント、2)課金プレイヤー、3)課金タイミングである。利益イノベーションの要諦は、さまざまな課金の可能性を考えることで収益の多様化を企図し、多様化された収益機会をうまく組み合わせることでこれまで以上に利益が取れる、すなわち価値獲得が可能なビジネスモデルに到達することである。

 

課金ポイントは、現在の主要プロダクトのみを収入源と考えるのではなく、主要プロダクトを軸としつつも、その周りに課金できる機会が存在することを前提とした収入機会を探すことで収益の多様化を図る視点である。例えば、カミソリの替え刃やプリンターのインクのように、主要プロダクトを補完する付属品、消耗品、ソフトウェアのようなプロダクトからより多く課金するといったポイントや、主要製品を運ぶ物流やメンテナンス、保証など、主要プロダクトを補完するサービスから課金するというポイントである。このように考えれば、主要プロダクトの周辺に多くの課金ポイントが存在しうることが理解可能であり、かつ、主要プロダクトから利益をとらなくても、他の課金ポイントから多くの利益を獲得することさえ可能であることが理解できる。

 

課金プレイヤーの視点は、課金する支払い者として、自社のプロダクトを欲しがり、それに対して要求したとおりの対価を払ってくれる主要顧客のみならず、主要顧客に限定されない形で料金を支払ってくれるような相手を含んだ形で収益の多様化を試みるものである。主要顧客の外側にいる他の課金プレイヤーなど、新しい課金プレイヤーが見つかれば、さらなる課金ポイントを見つけたことになると川上はいう。例えば子供向けの映画に同伴して大人料金を払う保護者のように、主要顧客よりも多く支払う可能性がある課金プレイヤー、主要プロダクトに付随する広告掲載料を支払う取引企業などが挙げられる。テーマパークのファストレーンやネット販売のエクスプレス配達のように、重課金が可能な状況優先顧客も存在するだろう。

 

課金タイミングは、プロダクトを販売したら直ちに課金して収益を回収する伝統的な考え方のみならず、顧客から課金をするタイミングをずらすことも含め、課金のタイミングを多様化することを指す。例えば、支払い者の購入後の活動を知ることで、購入後に継続して課金してもらえるような仕組み(サポートやメンテナンスなど)を考えたり、会員制のようにユーザーが継続的かつ定期的に支払ってくれるようなサブスクリプション型の課金を生み出したりすることで、課金タイミングの多様化を図ることができるという。

 

川上によれば、上記の3つの要素を含む課金ポイントを考慮することでできるだけ多くの潜在的な収益源を認識し、それらの課金ポイントを組みあわせることでこれまでとは異なる価値獲得の生み方を作り出すのが利益イノベーションである。その際に重要なのは、いくら多様な課金ポイントを特定できたからといって、無作為で脈絡のない課金ポイントを組み合わせても意味がないということです。そうではなく、これまで以上の事業利益を長期的に生み出すための仕組みとして、ゼロベースで価値獲得を変革することなのだと川上は主張する。

 

例えば「フリーミアム」のビジネスモデルは、「無料」の力を利用して主要プロダクトを広範に普及させ、ユーザーに使用してもらう。そして、使い込んだユーザーのうち、ヘビーユーザーにのみプレミアムサービスを提供して課金する。「弱者から儲けず、強者から儲ける」というモデルを用いるマッチメイキングのプラットフォーマーの場合、出品側にのみ出店料などを課金し、買い手には課金しないという形態が多く、「特定の人からは儲けない」という方針を徹底していたりする。そして、サブスクリプション型の課金は、売り切りによって開発や製造コストを一気に回収するのではなく、薄く長く課金することで赤字のまま我慢を重ね、後になってからしっかりと利益を獲得していくというモデルなのである。

 

文献

川上昌直 2021「収益多様化の戦略: 既存事業を変えるマネタイズの新しいロジック」東洋経済新報社

VUCA時代の問題発見法

細谷(2020)は、VUCAという言葉に代表される先の読めない時代に必要なのは「問題解決力」ではなく「問題発見力」だという。なぜならば、安定している時代にはある程度問題がわかっているので、その問題を解決する能力が重要だが、不確実性が上がれば上がるほど、そもそも何が問題なのかを考えることが必要になるからである。よって、例えば、「与えられた問題を上手に解く」のではなく、「そもそもこれは解くべき問題なのか」と考え、「解くべき問題はこちらである」と逆提案する能力が必要になってくるというのである。

 

細谷によれば、問題の多くは、時代の変化が旧来のものの捉え方と現実の間にギャップを生み出すことで生起する。例えば、VUCAによって変化している現実(例、デジタル化)が、昔から変わっていないルール(例、書類への押印)との間に歪みを生み出し、それが、あるべき理想像(例、デジタル技術の恩恵を受けた効率的な業務遂行)と歪んだ現実(例、業務遂行のために書類に押印が必要)とのギャップが問題となるわけである。そして、細谷は、こういった問題を解決するために具体的に変えるものを「変数」というアナロジーで表現している。

 

そこで、この変数という考え方を用いて、問題解決力と問題発見力の違いについて説明し、問題発見力を高めるためには「なぜ(Why)」を問うことが大切であることを解説しよう。まず、問題解決力とは、与えられた問題を解く力だと考えると、例えば以下のように問題が設定され、 a b_1が定数だとして、この問題において yを最大化する最適な変数 x_1の値を求めるというような作業が、問題解決のプロセスになぞらえることができる。

 y=a+b_1x_1
 

重要なのは、問題解決力は、「与えられた問題」を解決する能力であるから、下記の式は与えられたものとして疑うことをしないということである。 x_1が何であるべきかに集中するのであり、これは、What, When, Where, Whoといった、「個別対象」に着目しがちであることを示唆する。もちろん、問題解決のプロセスでは、 x_1を他の変数の組み合わせとして分解することで解きやすくはするだろう。しかし、最終的に最適な x_1を見つけ出すという問題の定義は変わらないのである。

 

では、上記の式に照らし合わせる場合、問題発見力とはどのように捉えることができるだろうか。細谷によれば、問題発見とは「新しい変数を考えること」である。であるから、上記の「与えられた問題」に対して、最適な x_1を探すことが本当に解くべき問題なのかと疑い、以下のように新しい変数 x_2を追加することが、解くべき問題を発見することだと考えられるのである。

 y=a+b_1x_1+b_2x_2  (b_1 \lt b_2)

 

上記のような式を見つけ出し、かつ、定数 b_2の値が b_1の値よりもはるかに大きい場合、最適な x_1を探しても yに対する効果は微々たることが予想されるため、それは解くべき問題ではないことが明らかになる。むしろ、最適な x_2を探すことが明らかに yを最大化することがわかるのである。これが問題発見力を示しており、上記の b_2x_2のように、いかにして適切な変数を見つけ出すかが重要なのである。

 

このような問題発見力にとって重要なのが、「なぜ(Why)」を問うことである。なぜ、 b_1x_1を追求する必要があるのか、他に重要な変数があるのではないのかと考えることで、新たな変数を探っていく。また、なぜ yに焦点を当てる必要があるのか、別の変数に焦点を当てるべきではないのかと考えることで、従属変数 yではなく従属変数 zを目的にすべきだというような発想に繋がるのである。

 

細谷は、Whyを問うことは、What, When, Where, Whoを問うことと本質的に異なることを指摘する。何故ならば、What, When, Where, Whoへの答えが、個別対象としての名詞の一言で終わるのに対して、Whyを問うことは、目的と手段の関係といったように「関係性」を問うことであるからである。であるから、What, When, Where, Whoが繰り返せないのに対して、Whyは、繰り返すことで関係性を拡張していくことができる。例えば、「問題とその原因」の関係について考え、さらに、「その原因をもたらす原因」というように、真の原因の発見(解くべき変数の発見)に迫っていくことができる。

 

よって、Whyを繰り返すことで「空に上がって」目先に見える事象を超える形で視野を広げていき、観点を様々に拡散させることで新しい変数を見つけ出すことができるのだと細谷は説明する。

文献

細谷功 2020「問題発見力を鍛える」(講談社現代新書)

情報論的生命観とは何か

生命とは何かという深遠な問いに関して、私たちの多くは、非常に素朴な見方をしがちである。それは、生命をパーツの集合体として機械論的にとらえるものである。この考え方が浸透し、臓器などの「生命部品」は交換可能な一種のコモディティと考えられるようになったと福岡(2017)は指摘する。このような考え方の出発点はデカルトだと福岡はいう。デカルトは、すべての生命部品の仕組みは機械のアナロジーとして理解でき、その運動は力学によって数学的に説明できるとしたと福岡はいう。その結果、動物の生体解剖が進み、身体の仕組みを記述することに邁進するようになったというのである。

 

しかし、上記のような素朴かつ間違った生命理解を修正するには、ミクロレベルの生命現象で何が起こっているのかを解明しようとする分子生物学の発展を待たねばならなかった。とりわけ、シェーンハイマーという科学者によって、生命現象が絶え間ない分子の交換の上に成り立っていること、つまり動的な分子の平衡状態のうえに生物が存在しうることが、明らかにされたのだと福岡は解説する。福岡はそこから「動的平衡論」を発展させたわけだが、彼はこの考え方に依拠しつつも、情報学的な観点からの生命観についても説明している。

 

情報論的な生命観の核となる考え方は、生命を自己複製可能かつ可変的でサステナブル(永続的)なシステムとして捉える際に、生命体を構成するタンパク質の構造を規定する「情報」がもっとも本質的な役割を果たしているという点である。タンパク質とはアミノ酸がいくつも連結した高分子化合物であり、生態を構成するアミノ酸は20種あり、その組み合わせが「情報」となる。その情報に基づいて生体の維持に必要なタンパク質を常に合成しつづけている動的なプロセスこそが、生命の本質を捉えているというわけである。

 

このような情報論的生命観を分かりやすく理解するための例として、福岡は、食べたものを消化するプロセスに着目する。素朴な考え方しかできない素人であれば、私たちの身体にはタンパク質が欠かせないから、食べ物に含まれているタンパク質を体内に取り込んで、不足するタンパク質を補うというような考え方をしがちである。しかしそれは間違った考え方である。食べ物は生物(生命)であったものの一部であり、私たちは端的にいえば他の生物を食べている。であるから、食べ物に含まれるタンパク質には、元の生命体を構成していたときの情報がぎっしりと書き込まれていると福岡は説明する。

 

もし、他の生物のタンパク質がそのまま私たちの身体の内部に取り込まれれば、他者の情報と私たちの情報が衝突し、干渉しあい、アレルギーや炎症や拒絶反応などの様々なトラブルが生じる。これらの反応はすべて生体情報同士のぶつかり合いである。では、私たちはどうやって体内のタンパク質を得ているのか。それは、消化の仕組みをミクロな分子生物学の視点から理解すれば分かってくる。実際に行われているのは、食べたものの中にあるタンパク質が、消化酵素の働きによって、その構成単位であるアミノ酸にまで分解されてから体内に吸収されるということである。

 

福岡の例えでは、タンパク質が「文章=情報」だとすると、アミノ酸は「文字」である。文字によって情報は生まれるが、文字自体は情報ではない。つまり、生命体は、口に入れた食べ物をいったん粉々に分解することによって、そこに内包されていた他者の情報(タンパク質=文章)を解体する(アミノ酸=文字)ということなのである。食べたものが消化され、アミノ酸として体内に吸収された瞬間には、食べ物に含まれていた生体情報は消失し、ばらばらになった文字だけになる。そして、体内で、これらの文字を組み合わせることによって自分自身の情報を作り出すことが行われる。これが、生体内でのタンパク質の合成である。

 

以上の説明をまとめると、私たち生物は、口に入れた食べ物に含まれるタンパク質をそのまま自分の体内のタンパク質として加えるのではなく、いったんアミノ酸のレベルにまで分解してから、体内で吸収したあとにそのアミノ酸を使って新たなタンパク質として合成している。情報論的生命観を理解すれば、なぜ私たちがそんな面倒くさいことをしているのかが理解できる。自分の生体に必要なタンパク質を作る情報は自分が維持している。そこに他者の生体情報が入り込むと衝突してしまう。だから、生体情報のない文字レベルにまで粉々にされたアミノ酸を取り込んでから、それを材料として、自分自身が保持している情報に基づいて自分の体内に必要なタンパク質を合成しているということである。

 

福岡によれば、私たちの身体は数か月で全部入れ替わってしまうほど、分子レベルでは高速に、体に分子を取り込んでは別のものを体外に排出するというような生体分子の入れ替えを行っている。そのプロセスを維持するために、毎日食物を食べる必要があるわけだ。それを理解できれば、生物をミクロな部品からなるプラモデルのように捉える機械論的な考え方がいかにお粗末な考え方であるかが分かるのである。

文献

福岡伸一 2017「新版 動的平衡: 生命はなぜそこに宿るのか」(小学館新書)

 

民主主義とは異なる中国の統治システム

中国ではいまだ民主化が進んでいないという見方が大勢である。橋爪・大澤・宮台(2013)によれば、共産党一党支配下の中国は「社会主義市場経済」を標榜しており、民主主義市場経済ではない。また、宮台は、「中国が市場経済化と民主化を両立させることはできない」という渡米して近代的社会科学の知識を身に着けた中国人エリートの意見を紹介している。民主主義なるものの最終価値は、「人民による政治」だということを宮台は示唆するが、では、中国は、民主主義ではないがゆえに、民意が政治に反映されない統治システムだといえるのだろうか。これを理解するには、中国の長い歴史において貫かれてきた欧米とは異なる伝統的な統治の考え方がヒントになると思われる。

 

まず、橋爪は、中国人の第一公理が「トップリーダーは有能でなければならない」、世襲のためトップリーダーが有能でない場合の第二公理が「ブレーンが有能でなければならない」であるから、君主と君主の手足になって働く行政官僚が有能であればよいというのが中国人の考えで、その有能な行政官僚を要請するのが儒教であったという。官僚における科挙の制度や抜擢人事による徹底した能力主義と、君子の世襲に基づく世代を超えた安定性の両方を組み合わせることで優れた統治を行うというシステムであったわけで、君子も官僚も有能ではなくなってしまった場合には、「全取っ換え」が起こるが、これが「易姓革命」といわれるもので、それは農民の総意なのだという。つまり、中国の人々はまったく容赦がなく、中国の歴史は交代の歴史、革命の歴史だというのである。

 

中国の伝統的な統治が上記のような特徴だとすれば、現在まで伝統が継続している中国での統治方法は本質的に民意が反映されないものであるといえるだろうか。歴史的に見れば、欧米の民主主義とは異なるが、何らかのかたちで民意が働いてきたとはいえるだろう。実際、中国の歴史では、農民の中からリーダーにのし上がった英雄が大勢現れて各地で予選、準決勝、決勝を行い、新たな統治者が現れ、新たな政府が誕生する。これは天命すなわち天の意志と解釈される。この政府の交替が繰り返し起こってきた。このような革命を儒教は承認するのであり、革命を承認する政治思想という点では、マルクス主義と似ていると橋爪は指摘する。

 

いったん「全取っ換え」が起こり、新たな君子、あらたな統治が生まれるのであれば、君子の存在とその血統による世襲を通じて政権を安定させることを正統化するためのロジックが必要になる。そこで重要な役割を果たすのが中国における永遠不変な「天」の概念である。天が、「天命」によって君子や政府に統治権を授与することで正統性が生まれるのである。大澤は、ただ、天命は、実際に天が下りてきて統治権を渡したりする形でくだされるわけではないから、状況証拠みたいなものが必要である。それは、農民が文句を言っていないということであり、逆に言えば、農民が文句を言って各地で反乱が起きたりすると、そのときの皇帝の天命はもう尽きたとなるのだと論じる。

 

つまり、中国では、政権による持続的、継承的支配の正統性の究極的な根拠として「天」を考えたわけであるが、その「天」が、政権はときには交替しなくてはならないという論理も内包することになり、易姓革命の論理が不可避になったと大澤は指摘するのである。ただ、神と違って天には人格がない。最後の審判もない。天命によって統治権力をある人に与えたあと、チェックがない。契約ではなく丸投げなんだと橋爪は指摘する。したがって、皇帝は、政治権力者として振る舞うとうパフォーマンスをやりつづけるのが自己正当化になるというシステムで中国はずっと来ているというのである。

 

では、現代における中華人民共和国と、失脚することなく何十年間も共産党の頂点に君臨していた毛沢東の存在はどのように理解すればよいのだろうか。とりわけ、大躍進政策文化大革命など、半端ない大失政を行ってきたにもかかわらず、毛沢東の権威は現在でも持続していると大澤は指摘する。そして、それは毛沢東が「世俗化された皇帝」として機能したからだろうと大澤は述べる。毛沢東が意図的にそうして操作したわけではないだろうが、彼の振る舞いが、天と天子を持っている中華帝国という核となる文化的要素でありシステムにはまっていったのだというのである。

 

そして、鄧小平以降の改革開放と文化大革命の関係については、通常は、文化大革命がとてつもなく中国経済の足を引っ張って、それを克服するために改革開放が進んだと理解されがちであるが、大澤は、文化大革命市場経済に適さないような様々な中国の伝統や習慣、行動様式を一掃したことで伝統の桎梏から解放された人々を大量に生み出したという思わぬ作用、意図せざる効果があって、そういう状況で一挙に改革開放が行われたので、人々は自由に新しい制度に対応できた、すなわち、改革開放こそ、文化大革命の最終的な仕上げだったのだという側面があるのだと論じる。まさに、中国人による「人生万事塞翁が馬」の考え方のように、文化大革命は明らかに悲劇だったが、後になって「それが捨て石になって、いまがある」と理解できるのではないかと宮台は指摘する。

文献

橋爪大三郎・大澤真幸・宮台真司 (2013)「おどろきの中国」(講談社現代新書)

 

中国にとって「漢字」とは何か

日本人の視点から「漢字」をみると、中国において中国人が生み出した文字というように単純に考えてしまいがちである。しかし、橋爪・大澤・宮台(2013)による鼎談によれば、中国は歴史的にみても現在においても多民族国家であり、民族間ではお互いに理解できない言葉を話していたわけであるから、そもそも中国とは何なのか、中国人とは何なのかを理解するうえでも最も重要なものが漢字であるといってもよく、ある意味で、中国を定義するものが漢字であるともいえる。では、中国において漢字はいったいどのような役割を果たしてきたのだろうか。

 

まず、漢字は、人類史において他の文明とか他の文化の真似や影響なしに独自に文字を作った数少ない例である。中国のほかにこのように独自に文字を生み出したのは、エジプトとメソポタミアとマヤ以外にないと大澤はいう。また、漢字はアルファベットのような表音文字ではなく、表意文字である。これは、話し言葉を文字で表現するという過程で生まれたものではないため、普通の人が容易に習得できる文字ではないことも意味している。これは、多民族国家である中国の特徴と深く関連していることを橋爪・大澤・宮台は示唆している。

 

鼎談において橋爪は、中国が、主権国家の集合であるEUのような存在であったことを理解することが重要だと説く。つまり、春秋戦国時代の越とか楚とか秦とかは、お互いに異なる民族だと考えたほうがよいという。フランス、ドイツ、イタリアのようなものだというのである。言葉が通じない人々ばかりのときに、表音文字を使うと、各言語を表記はできるが意味は分からない。それに対して中国は、概念をかたどった絵みたいな文字を作ることで、言葉が違っても意味が分かるような文字を生み出した。そしてこの文字を、それぞれの言語の読み方で読むことにした。これが漢字であると橋爪はいうのである。

 

橋爪は以下のように説明を続ける。漢字をどう読むかは、ローカルな言語共同体が勝手に決めればよかった。そのため、異なる民族間では、話し言葉では通じなくても、漢字を使えばどちらの言語でも意味がわかるようになり、漢字による言語共同体ができあがった。ただし、絵文字としての漢字の数は概念の数だけあるわけだからとても多く、習得が極めて困難であるという特徴がある。したがって、漢字による共同体では、漢字を使える人のコミュニケーション能力はきわめて高くなり、統一政府も構成できる一方、漢字を使えるのはほんの一握りの人々に限られるため、大多数の人々は文字が読めないままになって大きな情報ギャップが生じることとなった。

 

上記のような漢字の習得の難しさが、儒教が想定している一握りの官僚/大多数の農民という構図として固定化したと橋爪はいう。漢字を習得できない農民は、お互い言葉が違うために反抗しようにも団結できないわけである。また、漢字は絵文字だから中国語の動詞には人為的で活用がない。中国語は漢字を順番に音読していくだけである。これは、漢字を使うようになった後で、元の言語が漢字に合わせて変質してしまったものではないかと橋爪は論じる。普通は言語があって、それが表音文字で表記されるが、漢字はそうではないというわけである。これはほかの文字とはちがったまったくの大発明であり、これで多くの言語集団を包摂し、漢字を使う人々と定義をしてもよいような「漢民族」ができあがったというのである。

 

漢字の別の特徴は進化しないことだと橋爪はいう。秦の始皇帝の時代に決まった漢字のほとんどが今日までそのまま使われている。世界は漢字によって意味的に分節されており、それは永遠不変だと漢字を使う人々は信じているのではないかという。漢字が変わらないということは、漢字は世界のあるべきあり方と対応している、すなわち漢字のシステムは世界の真実のあり方と深く結びついているということでもあると大澤は論じる。それに関連して宮台は、中国人の過去志向と漢字文化とが結びついており、世界は有限要素の組み合わせでできていて、有限要素自体は固定されていて変わらないという世界観を中国人は持っているのではないかと示唆する。

文献

橋爪大三郎・大澤真幸・宮台真司 (2013)「おどろきの中国」(講談社現代新書)