量子力学が導くより正確な世界理解ー世界は関係でできている

細分化され専門化された学問としての量子力学は、物体の運動を理解しようとする物理学の1分野にすぎない。しかし、そもそも科学のもとをたどれば「この世界とは何だろうか」を問う哲学や自然哲学から派生したものである。その意味において、量子力学は、微小な視点でこの世界を成り立たせている根源的な現象に迫ることで、世界全体を理解する手がかりを探ろうとする学問であるともいえる。そして、ロヴェリ(2011)が指摘するように、科学とは世界を概念化する新たな方法を探る活動で、時には、過激なまでに新しいやり方でそれを実行する。科学は、自分の考えに絶えず疑問を投げかける力であり、反抗的で批判的な精神による独創的な力であり、自分自身の概念の基盤を変えることができ、この世界をまったくのゼロから設計し直せる力である。

 

上記の視点から量子力学を見ると、そのあまりの奇妙さに戸惑うことはあっても、現実を理解する新たな視点を提供してくれるものだとロヴェリはいう。ロヴェリが主張するその新たな視点とは、「現実は、対象物ではなく関係からなっている」というものである。この関係的視点から世界を理解しようとするならば、自分たちの頭の中にある「現実」の地図を根本的に問い直す核となり、現実が、自分たちが思い描いていたものとは根本的に異なっている可能性を受け入れることになる一方、心身問題すなわち物理世界と精神世界の異同や心の本質などの未解決の問題などへの答えにも近づいていくことを示唆する。では、量子力学の関係的視点とはもう少しかみ砕いくとどのようなものであるのか。

 

ロヴェリによれば、古典力学が生み出した世界理解は、この世は巨大な空間で、そのなかを、さまざまな力によって押したり引いたりされた粒子が飛び回っているということであった。しかし、量子力学の登場により、現実は、決して古典力学が記述するものではないことが判明した。科学的思考は、あらゆるものを絶えず疑い、論じなおすという、動き続ける思索である。そして、ロヴェリが解釈する関係論的な量子力学とは、「自然の一部が別の一部に対してどのように立ち現れるかを記述する」というものである。つまり、この世の中の様々な対象物や事物や存在は、各々が尊大な孤独の中に佇んでいるのではなく、ただひたすら互いに影響を及ぼしあっており、私たちが観察しているこの世界は、濃密な相互作用の網だというのである。

 

ロヴェリの主張する関係論的解釈によれば、1つ1つの対象物は、その相互作用のありようそのものであって、「存在するもの」は、その網のはかない結び目でしかない。その属性は、相互作用の瞬間にのみ決まり、別の何かとの関係においてだけ存在する。あらゆる事物は、ほかの事物との関係においてのみ、そのような事物なのである。この世界には、明確な属性を持つ互いに独立した実体は存在せず、ほかとの関係においてのみ、さらには相互作用したときに限って属性や特徴を持つ存在のみがある。粒子は永続的な実体ではなく束の間の出来事と考えた方がよいとシュレディンガーが言ったそうだ。私たちが普段の生活で、この世界は堅牢で連続したものであるという感じに慣れきっているのは、肉眼で巨視的にみているからに過ぎないのである。

 

とりわけ関係論的解釈で特徴的なのが、事実は相対的であるという見解である。ある対象にとって現実であるような事実が、別の対象にとっても現実であるとは限らない。よって、この世の中が属性を持つ実体で構成されているという見方を飛び越えて、あらゆるものを関係という観点から捉えるしかないとロヴェリはいうのである。私たちは量子論を通じて、あらゆる存在の性質、すなわち属性が、実はその存在の別の何かへの影響の及ぼし方に他ならないということを発見した。物理変数は、事物を記述するのではなく、事物の互いに対する発現の仕方を記述する。事実の属性は、相互作用を通じてのみ存在する。量子論は、事物がどう影響し合うかについての理論である。1つ1つの対象物は、その相互作用のあり方そのものである。

 

この世界は、様々な他者との関係によって生じる事実の網であって、それらの関係は、物理的な存在が相互に作用するときに現実のものとなる。このような関係論的な属性や関係が織り成す世界の観点に立つと、物理的現象も心理的現象も、相互作用が織りなす複雑な構造から生じる自然現象とみなせるようになる。例えば、心的世界に特有だと思われる意味や志向性についても、いたるところに存在する相関の特別な例でしかない。つまり、私たちの心的生活における意味や志向性と物理世界はつながっているとロヴェリは論じる。ロヴェリにとって量子力学は、自分たちの頭のなかにある「現実」の地図を根本的に問い直す際の核になったというのである。

文献

カルロ・ロヴェッリ 2021「世界は「関係」でできている: 美しくも過激な量子論」HNK出版

良い戦略とはどのようなものか

ルメルト(2012)によれば、戦略の基本は、相手の最大の弱みの部分に、こちらの最大の強みをぶつけることである。別の言い方をすれば、最も効果の上がりそうなところに最強の武器を投じることである。企業経営に即していうならば、他の組織はどこも持っていないが自社は持っているものが生み出しうる価値に着目し、それをテコにして重要な結果を出すための的を絞った方針を示し、リソースを集中投下し、行動を組織するのが良い戦略だということである。つまり、良い戦略とは「一点豪華主義」であるといえる。

 

また、良い戦略は、狙いを定めて一貫性のある行動を組織し、すでにある強みを活かすだけでなく、新たな強みを生み出すことだとルメルトは述べる。視点を変えて新たな強みを発見することが重要だということである。状況を新たな視点から見て再構成すると、強みと弱みのまったく新しいパターンが見えてくるわけで、良い戦略の多くが、ゲームのルールを変えるような鋭い洞察から生まれているというのである。つまり、ルメルトによれば、良い戦略とは、自らの強みを発見し、賢く活用して、行動の効果を2倍、3倍に高めるアプローチに他ならないわけである。

 

ルメルトは、良い戦略にはしっかりとした論理構造があるという。その屋台骨となるのがカーネル(基本構造)である。カーネルは(1)診断、(2)基本方針、(3)行動の3つの要素から構成される。まず、診断では、状況を診断し、取り組む課題を見極める。良い診断は死活的に重要な問題点を選り分け、複雑に絡み合った状況を明快に解きほぐす。そして、基本方針では、診断で見つかった課題にどう取り組むかの大きな方向性と総合的な方針を示す。そして、行動では、基本方針を実行するために設計された一貫性のある一連の行動をコーディネートして方針を実行する。

 

どのように強みが生み出され活用されるかについて、ルメルトは、テコ入れ効果、近い目標、鎖構造、設計、フォーカス、健全な成長、優位性、ダイナミクス、そして慣性とエントロピーという9つを挙げている。その中で、ダイナミクスでは、変化のうねりに乗ることの重要性をルメルトは説いている。変化のうねりは、外部の様々な要素の変化が積み重なって形成される。このような変化のダイナミクスは、既存の競争環境を覆し、かつての競争優位を消し去り、新たな優位を生み出すという。このような変化のうねりが押し寄せるとき、まったく新しい戦略が可能となるのである。

 

こうした荒々しいダイナミクスを自分たちの目的に適うように活かすことがリーダーの役割であり、そのためには鋭い洞察力やスキルや創造性が必要になるという。うねりの気配を感じ取り、変化の原動力を見極め、うねりが来たら業界の構図がどう変わるかを見極め、これから高地になりそうな方向を狙ってリソースを配分し、上手に波に乗ることが望ましいという。つまり、うねりがやってくる時こそ、戦略がモノを言うというわけである。

文献

リチャード・P・ルメルト 2012「良い戦略、悪い戦略」日本経済出版社

こころの「拡がり理論」は新たな地平を開くか

こころとは何かについての問いは、深く考えると非常に難解である。そもそも「こころ」はどこにあるのか。例えば「こころは脳に宿る」「こころは脳の活動から生じる」と素朴に考えたとしても、いくら脳科学の発展によって脳のメカニズムが深く理解できるようになったしても、こころの中身をのぞき込むことはできず、こころの正体にはたどり着かない。このように、突き詰めて考えるとどうしても行き詰ってしまう。

 

これに関して、石川(2012)は、こころを「魂」をとらえ、人が死ぬと「霊魂」が抜け出ると信じるような古代の時代から、私たちは何かこころというものを人間の身体の内部、もしくは脳の内部に詰め込まれたものであるという前提に立っていることがほとんどであると指摘する。これを石川は、こころの「詰め込み理論」と呼ぶ。そして石川は、詰め込み理論としてこころをとらえる限り、こころの本質の理解は前進しないという考え方に基づき、独自のアイデアとして、こころの「拡がり理論」を提唱する。

では、こころの拡がり理論とはいったいどんな理論なのだろうか。語意で考えれば、こころは人間や脳の内部に詰め込まれているのではなく、人間の外部にまで拡がった存在であるということになるが、自分のこころ(や意識)が外部にまで拡がっているとはどういうことなのか、直感的には分かりにくい。そこで石川の解説に目を向けるならば、生物の本質を意味作用に置き、「意味作用」を通じてこころを理解していくのが出発点となる。石川によれば、意味作用からこころが生まれるということであり、生物とは環境の中で意味を見出す存在である。

 

石川によれば、「意味」とはコミュニケーションが成立する基本的な要件である。人間は「意味にかかわる」ことで他者とつながり、「意味を見いだす」ことで社会における位置づけを発見する。こころの働きを特徴づけるのも「意味」であるし、「意味すること」は「生きること」であもある。私たちがコミュニケーションなどにおいて、音声や文字といった表象を手掛かりとして、何か(意味内容)を「思い浮かべる」場合、それは意味作用の1つであり、意味作用の結果がイメージである。

 

そして、意味作用は人間が行う「能動的な行為」であるというところが、人間の行動が単に外部刺激に対して機械的に反応しているのとは違うところで、現在のAIやロボットは、このような能動的な意味作用はできない。つまり、AIやロボットには、意味は分からない。表象や記号は多数の意味があるという意味で本来多義的であり、人間はその意味を状況に応じて理解している。さらに石川は、意識と無意識の関係や暗黙知の理論を用いてこの意味作用を深堀りする。

 

例えば、私たちが漢字の意味を知ろうとするとき、意識のうえでは意味を期待しながら、無意識に一点一画を含めた漢字を、意味が生まれる場全体に対して従属的に見ていると石川は解説する。暗黙知の理論でいうと、文字自体は「近位項」であり、現れると期待される意味が「遠位項」である。近位項はさまざまな要素の集まりで、遠位項は近位項が織りなす全体の「地」に対して現れる「図」であって、意味と呼ぶのにふさわしい。近位項が全体従属的に感知され、遠位項が焦点的に感知され、近位項から遠位項へと意味ある存在が現れるが、焦点的感知が意識的な働きなのに対して、全体従属的感知は、焦点化する全体の背後にさまざまな構成物を一望する無意識の働きだという。

 

石川によれば、私たちが持っている身体感覚は単なる皮膚感覚ではない。ハンマーを持てば、ハンマーが腕の一部のように感知されるし、車を運転すれば、車体が身体の一部として感知される。これは、身体感覚は暗黙知の所産であり、遠位項に相当する「意味」だということである。自分の内臓は自分の一部であっても無意識に動いており、ほとんど意識できない。しかし、他者と折り合いをつけて生きていくために有効な「意味ある行為」を探るには、意識が活用される。身体の内側は、無意識の管理下に置かれた近位項なのに対して、外側は意識によって焦点化可能な遠位項である。意識によって状況が全体的に把握されることで、身体感覚が生まれてくる。

 

ここまで理解してやっと、こころの「拡がり理論」の核心にせまることになる。石川によれば、こころは身体の内部に詰め込まれているのではなく、こころの機能を構成する拠り所は広く世界へと拡がっている。世界に拡がった諸要素が、こころの機能における近位項として働く。この近位項はほとんど無意識のうちに取り扱われるので世界へのこころの拡がりをなかなか意識できないという。しかし、文脈に応じてことばの意味が変化したり、状況によって適切な行為が変わったりするのは、私たちの外にも近位項があることを示している。これらが含まれた全体に対して意味作用が行われるのである。

 

こころの多くの部分は無意識が占めているが、無意識の働きには身体の外部にある状況などの諸要素が関わっており、これらが暗黙知の近位項として働く。この近位項には、人間の歴史、動物の歴史、生命の歴史も影響している。つまり、近位項の要素に、生物進化において意味作用を積み重ねた結果としての「歴史的事実」が寄与しているのであり、遺伝的なかかわりもある。そして、これら状況や歴史が含まれた暗黙知の遠位項を方向付けるのが意識の働きだと考えられる。つまり、人間のこころには意識面と無意識面があり、それらは協調して暗黙知を実現し、意味を形成しているわけである。このような「拡がり理論」に基づけば、私たちのこころは、私たちの身体を「拠点」として拡がっていると考えられる。

 

さて、意味とは生存に有効な行為を示唆するものであると石川はいう。そして、あらゆる生命は生きているがゆえに能動的な行為による意味作用を発揮しているから、こころを持つといえる。暗黙知の遠位項を方向付けるのが意識の働きだとすれば、原始的な生物にも「弱い意識」があると考えられる。ただ、「拡がり理論」に基づくならば、意識そのものよりも、そこに意味作用が働いているかを問題にすべきなのだと石川はいう。 下等とされる動物の意味作用と人間の意味作用とを比べて、「人間らしいこころ」とは何かを考えるならば、それは、コミュニケーションという場全体において、状況や歴史の共有を背景にして「共通した意味」があたかも共鳴するように人々の心に生成するところにあると石川は論じるのである。

文献

石川幹人 2012「人間とはどういう生物か―心・脳・意識のふしぎを解く」(ちくま新書)

人間とAIとのコミュニケーションは成立するか

人工知能(AI)の発展は著しく、私たちの生活のあらゆる場面において活用されようとしている。そして現在でも、対人ではなくスマートフォンタブレットに直接話しかけるという場面は、電話でも自動音声と対話することが増えている。これらの背後にはAIがいるわけである。しかし、そもそも人間とAIとのコミュニケーションは成立するのだろうか。これに関して、西垣(2016)は、コミュニケーションとは何かという定義と、人間と機械との違いに着目することに基づく見解を論じている。

 

まず西垣は、コミュニケーションを「閉じた心をもつ存在同士が、互いに言葉を交わすことで共通了解をもとめていく出来事」と、とりあえず定義する。この定義に従えば、コミュニケーションは、生物の間のみで成立し、人間と機械の間では成立しない。なぜならば、生物は閉鎖系であり自律システムであるが、機械はそうでないからである。つまり生物は、生きるために外部環境から自分で意味・価値のあるものを選び取り、独自の内部世界を構成している。一方、機械は開放系であり他律的存在なので、自律性とはまったく縁がない。例えば、AIは指令に従って論理処理を行う機械にすぎない。では、自律的閉鎖系の間でしか成立しないコミュニケーションとはどんなものなのだろうか。

 

基本的に、自律閉鎖系の人間同士の場合、相手の心の中は閉じられて外部から観察できない。よって、相手にメッセージを与えても、相手の意味解釈には幅があり多様な選択が行われることが想定される。これは、相手が自由意志を持っているということでもあり、だからこそ、送り手の意図が誤解されたりすることがある。閉鎖的自律性の存在同士の場合、お互いに相手の内部世界は不可知だということである。よって、人間同士のコミュニケーションにおいては、お互いに腹を探り合い、共通了解のための意味解釈の相互交換が行われる。たえまなく揺れる意味解釈を通じて、推定作業が動的に続けられるわけである。

 

上記の通り、人間同士のコミュニケーションにおいて、言葉(記号表現)のあらわす意味(記号内容)は、言葉にぴったり付着した固定的なものではなく、多様な言語的コミュニケーションを通じて動的に形成されていくものである。また、人間の言葉は抽象化を行うため、1つの言葉があらわす意味の幅がコミュニケーションによって拡大され、多義的・多元的にふくらんでいくと西垣はいう。「彼がねらっているのは社長の椅子だ」というように、比喩的に「椅子」が「地位」を意味するようになるといったように、比喩的なイメージが重なり、ふくらんでいく詩的作用が人間の言語コミュニケーションの最大の特色に他ならないという。

 

一方、機械学習に基づくAIのような存在は、上記の人間同士の言語コミュニケーションのプロセスとは真逆のプロセスを志向する。例えば、AIによる深層学習は、ビッグデータと統計処理を用いて、共通する特徴を抽出して、言語記号の意味解釈の幅を狭めて固定化し、それを論理的な指令(例えば正確な機械翻訳の出力)に結び付けようとする。AIによる自然言語処理での「意味処理」とは、ことごとく多義的な意味内容を1つに絞り込むための工夫なのである。要するに、人間同士のコミュニケーションは、比喩によって意味解釈を動的に広げていく「詩的で柔軟な共感作用」であるのに対し、AIは、言語の意味解釈の幅を狭めて固定化したうえで、指令的で定型的な伝達作用を行っているにすぎないということである。

 

以上の点から、西垣は、人間とAIとの会話は「疑似的コミュニケーション」であると定義づける。これは、閉鎖系と開放系との情報交換であることを示している。この疑似的コミュニケーションの特徴は、上記の人間と機会の違いを踏まえればおのずと明らかになる。人間とAIとの疑似的コミュニケーションにおいては、人間は意味解釈の幅を自由に広げようとし、AIは逆に意味解釈の幅を狭めようとする。コミュニケーションは、相手を自律的に意味を生み出す存在とみなすことと、相手を他律的な指示の対象とみなすことの両義性に挟まれる現象なのだが、他律的開放系のAIは、相手の人間も他律的な指示の対象としかみなせないので、人間を指示の対象として巧妙に操り始めるのではないかと西垣は危惧する。

 

本来自律的閉鎖系の人間も、社会生活においては、社会のルールに従うなど、他律的に振る舞うことも求められている。しかし、原理的に生物はリアルタイムで現在に生きている存在である。それに対し、機械はあくまで過去のデータによってきっちり規定される存在である。人間は、千変万化する状況のもとでも融通をきかせて行動できるが、AIはその動きを阻害する。よって、人間社会に、ビッグデータの活用と論理処理の面では卓越したAIが参入して人間との疑義的コミュニケーションの頻度を増やしていくことになれば、社会集団のなかの人間は、AIの指令にしたがう他律的な存在、機械的な作動単位に貶められてしまう可能性があると西垣は論じる。ある面では人間よりも賢いAIによってあらかじめ決められた計画にしがたって、どこまでも細部にわたるルールが規定され、人間は状況に対応した臨機応変の措置がとれなくなるというのである。 

文献

西垣通 2016「ビッグデータと人工知能 - 可能性と罠を見極める」(中公新書)

sekiguchizemi.hatenablog.com

 

 

生命とは何か

ナース(2021)は、「生命とは何か」という大きくかつ根本的な問いに対して、 生物学における5つの考え方を階段を1段ずつ上るようなかたちで紹介し、この5つの考え方を新たなかたちで結びつけることによって、生命の仕組みについての、はっきりとして見通しにたどりつこうとしている。まず、生物学の5つの考え方について説明しよう。

 

1つ目の考え方は、生命の基本単位は「細胞」だということである。これは、物質の基本単位が原子であることになぞらえることができる。ナースによれば、細胞はあらゆる生命体の基本的な構造単位であるだけでなく、生命の基本的な機能単位である。細胞はそれ自体で1つの生命体である。そして、すべての細胞は細胞から生じる。この細胞分裂という機能が、あらゆる生物の成長と発達の基礎だというわけである。

 

2つ目の考え方は、生命には、親と子が似ることが繰り返されるなど何世代に渡る継続性があり、それは、遺伝子を通じて行われるということである。遺伝子の正体はデオキシリボ核酸(DNA)であるが、生物学の発展により、このDNAの構造とそこに含まれている遺伝子暗号が解読可能になり、細胞分裂を通じて遺伝子が合成・複製されるプロセスも明らかになってきた。そして、遺伝子は、安定し続けることによって情報を保存すると同時に、ときには大幅に変化をすることで、生命が実験を行い、進化の原動力になることをナースは示唆する。

 

3つ目の考え方は、生命は自然淘汰のプロセスを通じて進化するということである。1つ目と2つ目の考え方によって、生命では細胞分裂の際に特徴が次の世代に引き継がれていくわけであるが、たまにおこる突然変異が環境に適応したものならば、その特徴が次世代以降に引き継がれることによって進化が起こる。このような自然淘汰を通じた進化は、きわめて創造的なプロセスだとナースはいう。何十億年もかけて、さまざまな種が台頭し、新たな可能性を探り、異なる環境と作用しあうことによって、判別できないほどその形を変えていったのである。そして、すべての種は、絶え間なく変化し、最終的に絶滅してしまうか、新しい種へと進化していくという。 

 

4つ目の考え方は、生命は化学反応によって成り立っているということである。実際、命のほとんどの側面は、物理学と化学の観点から説明できるとナースはいう。生命体で発生する膨大な化学反応を「代謝」と呼ぶ。代謝は生きているものが行う、維持、成長、組織化、生殖などすべての行動の基礎であり、こうしたプロセスを促進させるのに必要なすべてのエネルギーの源である。細胞ひいては生体構造は驚くほど複雑だが、突き詰めていくと、理解可能な化学的かつ物理的な機械だというのである。今日の生物学者は、驚くほど複雑な、生きている機械の全部品の特性を明らかにし、分類しようとしているという。

 

5つ目の考え方は、生物は情報処理を行っているということである。生命が複雑なシステムとして、自らを維持し、組織化し、成長し、増殖する、すなわち自分と自分の子孫を永続させたいという目的を達成するためには、自分たちが住む外の世界と身体の内側の世界との両方の状態について、情報を常に集めて利用する必要がある。つまり、生命の内側と外側の世界は変化するから、生命体にはその変化を検出して反応する方法が必要なのである。このような情報処理は、細胞が生命の基本単位としての化学的かつ物理的な機械だと考えると、どのように情報を記憶したり、利用したりするのかも科学的かつ物理的な視点から理解可能だというのである。

 

そしてナースは、上記の5つの考え方を組み合わせ、次のように生命の基本原理を説明する。生命の1つ目の原理は、生命は、自然淘汰を通じて進化する能力を有しているということである。生殖し、遺伝システムを備え、その遺伝システムが変動するという3つの特徴を持っているものは進化できるし、実際に進化する。2つ目の原理は、生命体は境界を持つ物理的な存在だということである。つまり、生命体は周りの環境から切り離されながらも、その環境とコミュニケーションを取っている。この原理は、生命の基本単位である細胞から導き出される。3つ目の原理は、生き物は化学的、物理的、情報的な機械だということである。自らの代謝を構築し、その代謝を利用して自らを維持し、成長し、再生する機械なのだという。

 

ナースは、上記の3つの原理が合わさって初めて生命は定義されるとし、この3つすべてに従って機能する存在は、生きているとみなすことができるというのである。

文献

ポール・ナース 2021「WHAT IS LIFE?(ホワット・イズ・ライフ?)生命とは何か」ダイヤモンド社

デジタル社会の本質とミルフィーユ化する世界

西山(2021)は、デジタル化の進展でいま何か決定的な変化が起こりつつあると指摘し、デジタル化が全面化する時代に変容しつつあるのは、個々の企業の経営のあり方だけではなく、企業が活動する産業そのもの、消費者を含めて取引を行う市場そのものが、新しい形に変容しつつあるということであり、そうした産業や市場の変化は、ソフトウェアあるいはAIのあり方と不即不離の関係にあると主張する。このような視点に立ち、西山は、インダストリアル・トランスフォーメーション(IX)の地図のようなものを描くことを通して、IX後の新しい産業のエコシステムを、レイヤー構造(重箱がいくつも重なるような層の構造、お菓子のミルフィーユのような構造)という形で表現している。以下においては、西山の発想にヒントを得て、デジタル社会の本質について理解してみることにする。

 

デジタル社会の本質は、あらゆる情報が仮想空間上に入力され、0か1の二進法の記号配列に変換され、この記号配列を別の記号配列に加工、変換する手続き(アルゴリズム)に沿ってAIが高速に演算するようになることである。現象界では、私たち人々は何らかの課題を持っており、その課題を解決することでこの世の中をよくしたいと思っている。それがビジネスという活動の本質でもある。そして当然のことながら、これらの課題には意味があり、何らかの価値観に基づいて解決がなされるべきものである。しかし、そのような課題でも、究極的に0か1の記号配列に変換されてしまえば、意味や価値はそぎ落とされ、純粋な数学的演算の対象となる。AIは、情報の意味や価値を理解できないが、記号配列を操作するアルゴリズムさえあれば高速かつ正確に演算できる。つまり、問題を定義して解決するアルゴリズムさえあれば、世の中のあらゆる問題がこれまで以上に大量、高速、正確に、すなわち効果的に解決されていく可能性があるわけである。

 

つまり、どのような問題でも、意味や価値を理解できないAIがアルゴリズムに基づいて演算できるレベルにまで抽象化して記号配列に変換することが可能なのであれば、あとはアルゴリズムで解決可能になるのであり、産業がまるごとそのようなプロセスに変換されるというのが、西山が指摘する「産業丸ごとの変換=インダストリアル・トランスフォーメーション(IX)」なのである。具体的な現象や課題を記号配列に変換し、かつアルゴリズムで処理することは一足飛びにはできない。ではどうすればよいかといえば、徐々に、段階的に、対象とする現象や課題の抽象化・記号化を進めながら、意味や価値といった人間にしか理解できない要素をそぎ落としていき、究極的に、機械(AI)が分かるレベルにまで記号化していくということである。人間が理解できる自然言語とAIが理解できる機械語はかけ離れすぎているので、通訳を重ねることで人間の実課題をAIが処理できる機械語にもっていくということである。まさに、深層学習(ディープラーニング)のプロセスのごとく、プロセスを多層化することで現象界における具体的な事象をAIが処理できるレベルに変換していくわけであり、これが、世界や産業がレイヤー化、ミルフィーユ化していくということの本質なのである。
 

であるから、現実のビジネス社会や産業全体では、様々な商品、サービス、業種・業態があり、それらを通じて社会の問題を解決し、社会をよくしようとしているわけであれば、これらの様々な要素がいくら現象面では意味的に異なるものであっても、これらすべてがAIや機械が解することができる記号配列とアルゴリズムにまで抽象化・変換されてしまえば、意味的な違いはなくなってしまい、すべて同列に扱うことができるようになる。あらゆる情報が0か1の二進法の記号配列に変換されるということはそういうことである。つまり、課題がAIのレベルに到達してしまえば、様々な商品、サービス、業種・業態といった違いは全く意味をなさなくなる。純粋にアルゴリズムに基づいて特定の記号配列が他の記号配列に人間の能力を超越したかたちで高速かつ正確に変換されるというプロセスが存在するだけなのである。

 

では、西山が解説する産業の産業全体のレイヤー構造とはどのようなものか。概念レベルでは、具体から抽象に上っていき、抽象から具体に下がっていくという表現のほうが分かりやすいが、デジタル概念でいうと反対で、AIや機械語に近いレベルが「低水準」で、人間の活動や人間が理解できる自然言語に近いレベルが「高水準」である。最下部に位置するのが「計算処理基盤」で、上位に位置するのが「データ解析基盤」である。これらを基本として、それらがいくつもの層にレイヤー化され、ミルフィーユ化されつつあるということである。最下層の計算処理基盤は、産業全体のインフラと化しつつあるので、個別企業が構築する必要はなく、シェアして使えばよい。一方、ミルフィーユの上位の層にいくほど、企業や事業の個別の課題を解決するためのソフトウェア、アプリ、システムといったレベルになっていくので個別企業レベルで取り組む話となる。レイヤー構造の最下部では意味や価値を理解しないAIがひたすら純粋な演算をゴリゴリと大量・高速・正確に行うわけであるが、上位層のシステムやアプリといったレベルになると、個別企業や個別事業のレベルにおいて、現象界の意味のある実課題が入力され、意味のある解決策が出力されるという理解となる。

このようなミルフィーユされた産業や世界において、課題や業務をAIレベルまで落としてしまえば、AIの演算能力を全面的に信頼して任せてしまえばよい。よって人間がなすべきことは、多層化された(ミルフィーユ化)された産業構造の中で、階層を下っていく際に具体的な現象や課題を抽象的な記号配列やアルゴリズムに変換する方法を設計し、レイヤーを追加したりする作業、逆に階層を上っていくことで変換後の記号配列を具体的な現象や解決に復元するプロセスを設計することなのである。なぜならば、意味や価値を理解することができるのは人間のみであるから、意味のあるものを無意味な記号配列に変換していくこと、そして無意味な記号配列を再び意味のあるものに復元することは人間にしかできないからである。アルゴリズムそのものについても、AIや機械はその意味を解することなく忠実に従うだけなので、その意味が分かる人間が介在することなしには構築することはできないのである。

 

つまり、いつの時代においても、現象界では、意味や価値のある問題、課題(例、社会問題、顧客ニーズ)が存在し、そこから、意味や価値のある解決策(施策、商品・サービス)が生み出されるわけであるが、過去のアナログ時代では、このプロセスは直接的につながっており、そこに人やモノが介在していたのである。よって、このプロセスでは人間の能力の限界という制約条件があった。しかし、デジタル社会では、産業基盤全体がエコシステムとして高水準のアプリやシステムから低水準の計算処理基盤までミルフィーユ化されており、問題・課題から解決に至るプロセスにおいてミルフィーユの階層を下ることで抽象化・記号化し、記号配列の高速演算を経た後、階層を再び上ることで演算後の記号配列を具体化・意味づけするというプロセスが介在しており、計算能力では人間の能力を凌駕しているITやAIの威力を借りれば圧倒的に高速・正確・大量に行うことができるのである。ポイントは、このプロセスは企業単位、事業単位で行うのではなく、産業全体が丸ごとミルフィーユ化され、業種・業態を問わず産業全体として丸ごと実行されることで効率・効果のメリットが最大化するとういうわけである。

 

要するに西山は、デジタル化の本質をとらえ、産業全体がレイヤー化、ミルフィーユ化するということの全体像を十分に理解したうえで、各企業がそのミルフィーユ化された産業にどのように関わっていくかを明確にしたうえでDXに取り組むべきであることを強く主張するのである。 

文献

西山圭太 2021「DXの思考法 日本経済復活への最強戦略」

会計×戦略思考の本質

大津(2021)は、「会計がわからなければ真の経営者にはなれない」という稲盛和夫氏の言葉を引用しつつ、会計の数値を企業活動と結び付けて考えることができる人ほど、会計を手段として使いこなすことができていると論じ、「会計✕戦略思考」というかたちで経営に役立つ会計スキルを身に着けるための考え方を紹介している。 

 

大津によれば、会計数値を定量的に理解し読み解く力を「会計力」と呼び、経営の外部・内部環境を的確に把握し、その企業が採用する経営戦略を定性的に理解することで企業活動を読み取る力を「戦略思考力」と呼ぶ。この会計力と戦略思考力は相互に密接している。なぜならば、企業活動があった結果として、会計の数値がつくられるのであり、将来の企業活動の計画があって、会計の予想数値が作られるからである。一方、会計数値を紐解くことで、企業活動をある程度類推することも可能である。

 

上記のように、経営戦略を紐解くことでその企業の会計数値の構造をある程度推測し、会計の数値を見ることで企業活動をある程度推測するという、原因としての企業活動と、結果としての会計数値の両者を往復することが抵抗なくできる人ほど、会計を実に有益なツールとして活用できていると大津は指摘する。そして、定量的な「会計力」と定性的な「戦略思考力」を結びつけるものが「論理的思考力」だと大津はいう。

 

企業活動と会計数値の往復をスムーズに行うための方法として、なぜそうなるのかという「WHÝ?」を考え抜き、そこから得られる結論を具体的な行動に結び付けることを考えることが重要だと大津はいう。企業活動と会計数値を照らし合わせ、「WHY?」を考え抜くことで、本質的な原因の解明を行ったら、そこから何が言えるのか、すなわち「SO WHAT?」を問いかけることで、解明された原因から本質的な経営の意味合いを導き出す。そして、どのように解決していくのか、すなわち「HOW?」を考え、意思決定・問題解決のアクションにつなげていくというわけである。

 

上記のように、会計✕戦略思考の最終的な目的は過去の分析ではなく、将来に向けた意思決定であることを理解することが重要である。将来の正しい意思決定を行うために、過去からしっかり学ぶことが不可欠ということである。会計数値の分析だけでアクションプランをすべて構築できるわけではないが、会計数値からのアプローチは、これまでのイメージと異なる真実を知り、意味合いを考え、次の打ち手を考えるための洞察力を与えてくれると大津は論じる。イメージを持つことは大切だが、イメージと数値が異なっていれば、正しいのは必ず数値なのだというのである。

 

会計✕戦略思考の具体的なトレーニングの方法として、大津は以下のようなものを挙げている。1つ目の方法は、決算書を見るまえに企業情報などから決算書をイメージして仮説を立て、その後、決算書を読むことで仮説を検証するというものである。決算書を見るまでにどこまで決算書をイメージできているかが、分析の深さとも結びついていくという。2つ目の方法はその反対で、決算書の数値から仮説→検証のプロセスを通して企業名を当てていくような方法である。この訓練を積むと、新たな事業計画を立てる際にも、どういった収益構造や利益構造を目指し、どのような投資や費用、資金調達が必要になるかを考える能力が身に着くという。

 

上記のようなトレーニングの際に、経営戦略やマーケティングなどの基本と、そこから導かれる収益構造や利益構造、バランスシート(BS)の内容などとの結びつきを理解することも重要である。その際、損益計算書(PL)を読み解く基本法則として「本業か、本業でないか」と「経常的か、特別か」という2つの軸でマトリクス構造に分解して理解すること、そしてBSを読み解く3つの基本法則として「大局観(BSは固まりで読む)」「優先順位(BSは大きな数値から読む)」「仮説思考(BSは仮説を立ててから読む)」を理解しておくことが有用だと大津は示唆する。

文献

「大津広一 2021「ビジネススクールで身につける 会計×戦略思考」日本経済新聞出版