ユーラシア全域と海洋世界から眺める「新しい世界史」

岡本(2018)は、世界史における西洋中心史観を批判し、西洋中心史観で焦点が当てられている世界史の時系列と地域空間を見直すことで、西洋史観に基づかない「時代区分」と中央ユーラシアを舞台とする「東西交渉史」を組み合わせた「新しい世界史」の構想を試みている。この新しい世界史では、西洋近代以前の表舞台はいやおうなくユーラシア全域ということになり、なかんずく東・南・西アジアが遊牧と農耕の二重世界となって、各々の内部で相克と共存を繰り広げる歴史ということになる。その後、海洋世界の時代が到来し近代ヨーロッパが胎動することになるのである。


上記のような発想だと、世界史はアジア史が中心的な位置を占めることになり、そのへそとなるのがユーラシア大陸の中央付近、シルクロードのあたりとなる。ユーラシア大陸は広大なので、地理上の気候、生態系、それに応じた人間の生活様式が違う。具体的には、温潤気候と乾燥気候が南北に併存した構造のもと、温潤地域では農耕で穀物を生産する定住生活が志向され、乾燥地域では牧畜の草原を求めて移動する遊牧生活となる。遊牧は軍事力に、農耕は生産力につながる。そして遊牧と農耕は全く別の生活様式なので産物も日用品も異なるため、遊牧地域と農耕地域の境界で取引交易の契機が生じ、商業が誕生し発達したと岡本は説く。


すなわち、ユーラシア大陸において遊牧、農耕、商業の3要素が交錯した場所から世界史(アジア史)が出発したといってよく、古代文明の発祥として最古なのがオリエントだと岡本はいう。オリエントの文明圏、国家圏はどんどん拡大していき、オリエント・西アジアという大地域を構成するようになった。ギリシア・ローマもオリエントの外延拡大の産物となる。東においてはオリエントからの波動をうけたインド(インダス)文明が生まれ、オリエント文明がさらに東に伝播したのが黄河文明であると岡本は解説する。


その後、地球規模の気候変動である寒冷化によって、遊牧(軍事)、農耕(生産)、商業(交換)のバランスが崩れ、民族大移動が生じ、古代文明が解体していった。生活に安定を欠き、生存を脅かされた人間は宗教を発展・普及させ、オリエント・南アジアで生まれた世界宗教キリスト教、のちにイスラム教、そして仏教)が東西に広がることとなった。そして世界史は、流動化の世紀を迎える。東の中原(中国)、西のペルシア、ローマに至るユーラシアにおいてやはり主たる舞台はペルシアや中央アジアで、西からのイスラーム化と東からのトルコ化が進展し、分立、拡大、統一を繰り返すなかで様々な民族、国家が勃興・衰退を繰り返した。


そして、モンゴル帝国の誕生で世界史は大きな契機を迎えた。遊牧勢力の打ち立てた政権が広域の支配圏を作ったことで、他国の対峙・共存の時代から、東西の草原オアシス世界の統一、ユーラシア統合、近世アジアの形成につながった。軍事拡大をやめたモンゴル帝国は、広域の商業化、銀建ての財政経済、流通過程からの徴税などを推進し、ユーラシア全体は政治的な多元性と潜在的な対立を残しつつも、商業で1つに結びつく経済交流圏となったのである。そして、ユーラシア地域全体を巻き込んだ商業経済圏の拡大は、シルクロードの商業資本と結びついた貨幣・流通の組織が、陸上にとどまらず海上に展開することにつながったと岡本は説く。


ポストモンゴル時代には、西アジア中央アジア、南アジアにおいてはイスラーム勢力による政権が異教徒を包含する形で統治を行うようになり、東アジアにおいては、明朝、清朝時代において社会の商業化とともに海上交通、海洋交易も盛んになっていった。また、以下に示す大航海時代の到来によって、インド洋はユーラシアの付随的な沿岸から、世界の大道へと化した。それに伴い、中央アジアに代えてインドを、経済的に世界の動向を左右する存在、アジアの一大中心地たらしめることとなった。


15世紀末以降のインド航路、アメリカ大陸の発見に機を発する大航海時代の到来によって、ほぼユーラシア大陸のみを舞台に営まれていた世界史が、地球全体を覆うグローバルなものに転じた。いわゆる「環大西洋革命」である。ここで世界史の主役が、ユーラシアの最果てに位置し、これまでほとんど存在感のなかった地域であった西ヨーロッパに変わったのである。その後、産業革命の世紀を通じて、大英帝国・近代西洋がアジアに優越し、これを従属化させることで世界を制覇したのは旧来の世界史が記述するところである。

現代経済学とは何か

瀧澤(2018)は、20世紀半ば以降、この半世紀の間に経済学は大きく発展し、経済学とは何かという問いに対して「経済現象と対象とし、それを解明する学問」と単純に回答するのに大きな戸惑いを感じるようになっているという。つまり、経済学の急速な変化と多様な進化が、経済学の全体像に対する見通しを難しくし、今日の経済学が何をしている学問なのかがわかりにくくなっていると指摘するのである。もともとアダム・スミスを源流とする経済学は、市場メカニズムの解明へと収斂していくこととなり、新古典派経済学を中心に自然科学なかんずく物理学を模した数学的発展を伴うことで、一定の条件下では市場メカニズムが社会的に最も望ましい資源配分を実現することを証明したと瀧澤はいう。このような従来型経済学の一般的な定義は、ロビンスによる「経済学は、さまざまな用途を持つ希少なさまざまな手段とさまざまな目的との関係として、人間行動を研究する学問である」というものだという。つまり、経済学は、希少性と最適化を基本とし、経済現象に数学的手法を応用する学問として確立されたかのように見えたのである。


例えば、ゲーム理論が経済学に浸透すると、上記の定義に収まらなくなってきた。ゲーム理論は、市場を経由した主体間の相互作用ではなく、プレーヤーの行動が直接的に他のプレイヤーに影響を与えあう「ゲーム的状況」の経済分析に経済学を拡張し、ルービンシュタインによる「経済理論は、人間の相互作用における規則性を説明しようとするものである」という形で経済学を捉えることにつながった。ゲーム理論によって、人間行動の観察された規則性を説明する際に「信念と行為の組み合わせ」という観点が導入され、異なる複数の均衡が存在しうることを理解できるようになった。マクロ経済学でも、信念の概念と類似した「期待」という概念が導入され、経済システム内部にいる人々が将来の予想を形成して行為を選択すると考えるようになった。さらに、行動経済学の登場により、それまで経済学では「公理」として前提されほとんど疑われることがなかった現実の人間行動の分析にまで経済学を拡張し、実験経済学では、実験という発想が多様な仕方で経済学を変えつつある。さらには、市場以外の制度の重要性に着目する制度派経済学や、人類が実際にたどってきた経路を事実の側面から見る経済史も経済理論に影響を与えている。


瀧澤は、経済学が、公理的体系として演繹的に構成された学問体系であり、客観的対象としての経済現象を記述し、分析し、説明する科学であるという考え方、あるいは経済学は法則定立的な科学であるという見方を維持するのは難しいと指摘する。その理由の1つに、社会科学一般においてみられる「遂行性(パフォーマティビティビティ)」がある。これは、人間の思考が現実世界のあり方に大きな影響を及ぼすことを示す概念である。経済学が対象とするのは物理学が対象とするシステムとは異なり、その振る舞いが人間の意思決定で決まるという特徴を持っている。すなわち、経済学や社会科学一般は、社会の中で構成しているカテゴリを扱うという点において、存在論的に主観的(哲学者サールによる分類)なものを扱っているので、われわれがその概念を一定の仕方で理解し、それに基づいて社会的実践を行い、それがさらにもとの概念の妥当性を強化するといったプロセスが作用している。経済学でも、それ独自の構成概念を作り上げることで、それが記述の対象としているわれわれの社会的実践に対して遂行的な影響を与えている。つまり、概念構成を通じて社会に対して作用しているので、物理学のように単にあるがままに存在している(存在的に客観的)現象に対峙しているわけではないのだ。


上記のような理由で、経済学においては、普遍的法則と呼ばれるものはほとんどなく、経済現象を客観的なものと捉えて法則定立的に研究するのは困難であるわけだが、それに対して瀧澤は、経済学の目的を「メカニズムの探求」として捉えようとする。メカニズムとは、あるシステムが一定の振る舞い(現象)を示しているとき、システムを構成する存在物あるいは部分が、それらの活動やインターアクションによって当該の現象を生み出すように組織化された状態を指すと瀧澤は説明する。原因と結果の法則を見つけて何かを予測したりするのではなく、そこで何が起こっているのかを知るということである。経済学では、いくつかの仮定を設けて数理的な理論モデルを構築し、モデル内部で演繹的推論を行い、モデル内部で成立するいくつかの結論を導き出す。この過程では、抽象化と同時に、絶対に成立しない仮定を盛り込む理想化(科学研究の常套手段)も行う。瀧澤の言葉を借りれば、このような理論モデルはメカニズムを表現する。つまり、経済理論は、現実の世界を表現しているのでもなく、モデルから得られた結論が現実の現象を100%予測するわけでもなく、現象に対して人間が何らかの概念的読み込みを行ったものとしての「メカニズム」を表現するのである。


そして瀧澤は、経済学における遂行性と、経済学がリアルな人間行動まで研究対象となったことを組み合わせ、今後の経済学が、より広い「人間科学」の一部を構成していくという方向性を提案している。これは、近年の傾向でもある人間行動に対する自然科学的アプローチすなわち自然主義へのアンチテーゼとしても捉えられる。つまり、近年の自然科学の著しい発展が人間行動をリアルに捉える成果を出してはいるが、それが、社会におけるわれわれの自己理解に影響を与え、それがわれわれの社会制度を変化させるという遂行性の作用を伴うし、別の見方をすれば、人間の操作のされやすさを利用する機会を拡張しうることに警鐘を鳴らしているわけである。そこで瀧澤は、人間は根本的に「制度をつくるヒト」であり、制度的存在であるという。制度は「第二の自然」のようなものであり、自然界に属するとも人間界に属するとも言えない。われわれが外界に創り出しているともいえるが、われわれの考え方そのものにも内在していて、外界を見る観点そのものを構成している。そのような制度の中には、正義、道徳性、自由、友情のように価値にまつわる概念が多く含まれる。よって瀧澤は、経済学は、自然科学的アプローチを包含しつつも、より広く人間に関する現象を洞察する人間科学として発展していくことが望ましいと主張するのである。

21世紀アジアのグローバルバリューチェーンと日本の立ち位置

後藤(2019)によれば、雁行形態論が示す通り、日本は20世紀後半にはアジア経済ダイナミズムの中心にいたが、21世紀になるとアジアは多極化時代を迎えた。後藤が示す統計データによると、世界におけるアジアのGDP比率は、1968年の10%から、2018年には28%にまで上昇している。一方、アジアの中での日本のGDPが占める割合は、1968年には58%、1988年には78%となり、日本1国で、それ以外のアジア12カ国のGDP合計の4倍近い経済規模を誇っていた。それが、2018年には21%まで減少した。つまり、日本を除くアジア12カ国の経済規模が、2018年には日本の3.7倍になった。


これは、アジアにおける各国の経済水準が後発国メリットを生かしてキャッチアップし収斂に向かっていることでアジア経済が日本一極の時代を脱し、本格的な多極化時代を迎えたことを意味すると後藤は言う。そして、その理由が、多様なプレーヤーが主体的な役割を果たし、グローバル・バリューチェーンを組織し始めたことでアジアの経済統合が進んでいるからなのである。つまり、21世紀に入ると、企業の経済活動が一国内で完結するフルセット型から、国境を越えて組織化される国際ネットワーク型へとシフトし、生産の統合から分散への移行が起こっているのである。複数の国に立地する多様な企業が、細分化された生産工程の分業関係を通じて繋がり始めたのだ。フルセット型産業から国際分業に移行する「グローバル・バリューチェーンの時代」を迎えたのである。


アジアの経済統合と国際生産ネットワークの展開における鍵概念が「フラグメンテーション」と「アグロメレーション」だと後藤はいう。フラグメンテーションとは、1つの企業や国の中で統合されていた生産フローがいくつかの生産プロセスに分断され、それが国境を超えるかたちで分散立地するようになることである。アグロメレーションとは、分散された生産フローにおける特定の工程が同じ場所に集まるようになることである。これら2つの異なるダイナミズムの相互作用が、グローバル・バリューチェーンの展開を支えているというわけである。


ではなぜ21世紀になってアジアはグローバル・バリューチェーンの時代を迎えたのか。1つ目の理由は、サービス・リンク・コストの著しい低下である。サービス・リンク・コストとは、フラグメンテーションにより各工程が企業や国の枠組みを超えた広がりを持つようになる場合に、異なる工程・機能をスムーズにつなぐための費用である。これが、ICTの発展、国際貿易の関税障壁の低下、国際物流コストの低下などで大幅に下がったのである。2つ目の理由は、産業を超えて機能や工程、タスクが比較優位のベースになったことである。フラグメンテーションの進展で工程レベルの比較優位が重要となり、アグロメレーションによって特定の工程や機能を担う企業が正の外部性効果を通じて地理的に集積するようになったということである。つまり、フラグメンテーションによる生産工程の効率的な地理的再配置と、アグロメレーションによる収穫逓増による個別工程の効率性向上の組み合わせ、すなわち集合的効率性が源泉となったのである。


製品・工程アーキテクチャの変化も、アジアのグローバル・バリューチェーン化とそのガバナンス構造の変化に大きな影響を与えていることを後藤は指摘する。それは、各部品の擦り合わせが重要なインテグラル型から、標準化された部品のインターフェースを定めて部品を組み合わせるモジュラー型への移行である。モジュラー化により、これまで技術の内部蓄積が浅かったアジアの企業にも参入経路が開かれ、これらアジア企業によりグローバル・バリューチェーンへの参加を通じて工程、製品、機能の高度化も果たしつつある。分野によっては、日本以外のアジア企業が実力をつけてアジアを牽引するようになったのだと後藤はいう。また、モジュラー化の進展で部品の代替可能性が高まり、生産フローの各々の工程や機能の外部化が容易になると、グローバル・バリューチェーンのガバナンス形態が階層組織型から市場型へ移行し、企業間の力関係の変化が誘発されるようになっている。


以上見てきたように、21世紀になってアジアはグローバル・バリューチェーンを主導し、アジアは、域内の生産分業体制で「世界の工場」としての競争力を発揮し続けているのみならず、今や世界の「消費者」と「投資家」としても存在感を示し始めたと後藤はいう。ICTとデジタル技術を核とした新しいイノベーション・エコシステムの興隆も著しい。今や世界のGDPの4分の1をアジアが占め、その規模はすでに北米経済圏と並び、欧州28カ国を超えた。この中で日本は、アジアの企業が組織し、統括するグローバル・バリューチェーンに積極的に「組み込まれる」ことで、新たに拡大するビジネス機会を模索していく必要があると後藤はいう。例えば、他者の主導するグローバル・バリューチェーンの特定の工程・機能において代替が利かないようなユニークなポジションを築く。日本固有の仕組みとは異なる要素を含む多様性に柔軟に対応する。これらを通じて、アジアと共に未来を築くのが日本の役割なのだろうと後藤はいうのである。

20世紀アジアの雁行形態型発展モデルとは何か

後藤(2019)によれば、雁行形態型発展モデルは、第二次世界大戦後の20世紀のアジアにおける日本の経済発展プロセスとアジア諸国との関係を説明するのに有用なモデルである。戦後の歴史を振り返るならば、様々な国際政治経済的な要因が重なり、アジアの中では日本が戦後復興と高度成長をいち早く実現した。そのため、20世紀後半のアジア経済の発展は日本が主導した。日本が主導したアジア経済の発展を雁行形態論を用いて一言でいうと、一国(日本)で起きた経済発展の波がその国(日本)だけに収まらず、国境を越えて隣国に伝播していくようなメカニズムが働いていたといえる。20世紀後半のアジアの経済発展では、雁の群れの一番先頭を飛んでいたのが日本だというわけである(二番手を飛ぶ雁のポジションに韓国やシンガポールなどの国々がいた)。日本の一極体制下におけるアジア経済秩序のダイナミズムの基本構造だともいえる。


雁行形態論の原点は、途上国を先進国との関係で見た際、その経済構造が異質なものから同質化へと向かうプロセスに注目した点と、その途上国における国内産業の盛衰サイクルを輸入ー国産ー輸出ー再輸入という貿易形態の変化との関係で途上国の工業化の動態を論じた点にあると後藤はいう。つまり、一国内で輸出から輸入に転じる局面において、当該産業がより後発の近隣諸国へと移転されるというメカニズムを説明するためのモデルなのである。以下で具体的に説明しよう。


産業が未発達の後発国では、工業製品は通常輸入されるところからスタートする。工業製品の中でも、労働集約的で汎用技術が中心の生産が比較的簡単なものについては次第にその供給が国産品によって代替されるようになる。さらに時間が経つと、同産業の競争力が増して生産量が拡大し、輸出産業と化す。経済のさらなる発展に伴って資本蓄積が進んで賃金が上昇し始めると、今度は労働と資本といった生産要素の相対価格が変化し、当該産業の競争力を失う局面がくる。そうした経緯を経て、やがてはその工業製品を再び輸入する状態に回帰する。このころになると今度はより資本集約的で高い技術水準が要求される高度な財や、そうした財の生産に使われる設備機械等の生産財に関して、同様のサイクルが起きるようになる。以下のように後藤は、繊維(軽工業)・鉄鋼(重工業)・テレビ・自動車(技術集約型産業)を例として雁行形態発展モデルを説明している。


戦後の日本は資本蓄積レベルがまだ低かったが、生地や衣服などの繊維製品の生産技術が他産業と比較して労働集約度が高かったことから、国産品が増加し、1950年代になると競争力が増したため生産量の拡大と輸出の増加が起こった。しかし経済が成長し始め、1960年代に賃金水準が上昇して資本蓄積が進むと、こうした労働集約的な繊維産業の競争力が低下した。その際、日本で斜陽化し始めた繊維製品の生産を、当時はまだ資本蓄積レベルが低かったアジアNIEs(韓国、台湾、香港、シンガポール)が担うようになった。つまり、繊維産業は同じアジア域内のNIEsに移転した。よって繊維製品は日本からの輸出が減り、アジアNIEsからの輸入品に代替されるようになった。一方、日本ではより資本集約的な鉄鋼部門など重工業の競争力が高まっていった。しかし、これらも同じメカニズムを通じてアジアの周辺国が成長すると競争力を失うことになり、さらに資本と技術の集約度の高いテレビや自動車の生産に競争力が移っていった。


雁行形態論に従えば、NIEs諸国でも同じようなサイクルが起こることになる。すなわち、1970年代にはいると、NIEsでも資本蓄積が進んで繊維から鉄鋼の生産に産業構造の中心が移り、新たにタイやマレーシア、フィリピンやインドネシアといったアセアン諸国が台頭して、地域の中で繊維製品の生産を担うようになったのである。つまり、20世紀のアジアの経済発展は、産業がより後発の近隣諸国へと移転されるというメカニズムを通じて、一国では時系列的に産業構造が変遷する一方、それぞれの時代においてアジアの国際生産分業体制の秩序ができていた。このメカニズムの基本単位は産業部門や消費財である。20世紀のアジアでは、産業間の域内分業を通じて経済秩序が形成されていったのだといえるのである。

ブラック–ショールズ理論をざっくりと理解してみる

今回は、教養としてブラック-ショールズ理論を捉え、ざっくりとブラック―ショールズ方程式を理解してみようと思う。ブラック―ショールズ理論といえば、金融派生商品の価格付けの基礎となる理論で、ノーベル経済学賞につながった金融工学の理論でもあるので数学的にもかなり難解である。ではなぜブラック―ショールズ理論を教養としてとらえることが有用なのか。それは、長沼(2016)によれば、ブラック―ショールズ理論は確率統計を学ぶには絶好の教材で、文系理系を通じてこれ以上の教材はないと言われているからである。ブラック―ショールズ理論および方程式をざっくりと理解するうえでポイントとなってくるのが、理系的な観点から言えば、正規分布にまつわる考え方、確率微分方程式のイメージ、そして伊藤のレンマと呼ばれる数学概念である。文系的な観点から言うと、無リスクポートフォリオが利益を生み出すイメージである。これらを組み合わせるとブラック―ショールズ理論が直観的に分かることを長沼は示唆する。


まず、ブラック―ショールズ方程式で主に扱う金融資産の動きを理解するうえで決定的に重要なのが、正規分布の理解である。なぜならば、金融市場における株式などの値動きは、ありとあらゆる様々な確率的要素が積み重なって1つの指標として集約されたものだと考えられ、それは、分布の形を問わず、様々な確率分布が合成されていくと正規分布になるという「中心極限定理」を体現したものだからである。正規分布中心極限定理を直感的に理解するうえで有効なのが、ガウスの基本的な思想に立ち返ることだと長沼はいう。その思想とはずばり「この世の中の誤差やばらつきは2つの部分で成り立っている。それは、一定方向に現れる(よって修正可能な部分)と、左右に等分に現れて、確率的にしか扱えない部分である」というものである。いろいろなものが組み合わさると、前者の誤差は相殺されるが、後者の誤差は相殺されないので、左右均等の正規分布になるということである。


この正規分布を基本とする確率分布を、時間軸を加えた2次元で表現すると、確率過程とかランダムウォークになる。先ほどのガウスのイメージを使うと、時系列に見た金融資産の値動きは、右肩上がりとか右肩下がりのようにある方向性を示す「トレンド」の成分と、正規分布にしたがって上下ランダムに動く「ボラティリティ」の成分とが合成されたものを瞬間的な変化(微分)とみなす動きとして理解できる。当然のことながら、t時間後にどの値になっているのかは確率的にしか分からず、その確率が正規分布に従うというわけである。正規分布の幅を示す指標の1つが標準偏差であるが、ランダムウォークでは、時間とともに金融資産の値のとる確率を示す正規分布の幅がどんどん広がっていき、時間をtとするならば、√t倍で広がっていくことを理解するのが重要である。分散の加法性という法則があるので、独立した確率過程がt時間たつと(t回繰り返されると)、毎回分散が足しあわされてt倍になるので、標準偏差は√t倍になるのである。


そして、ブラック―ショールズ方程式を導く際のハイライトとなるのが、数学者の伊藤清による確率微分方程式と「伊藤のレンマ」である。確率微分方程式は、一見すると難しそうに見えるが、要は「一般に物事の動きは、一定方向に動いて人間が予測できる部分と、±どちらの方向にもランダムに動いて確率に委ねるしかに部分に分かれる」というのを、dx = Adt + Bdwという形で表したにすぎない。先述のとおり、これは、全体としては一定の方向に向かいつつ、ジグザグを繰り返して進んでいくランダムウォークである。ただ、ここから、ポートフォリオを組んだりした際に本来知りたい資産価格の動きを予測するための数式を導く際に大きな問題にぶつかる。それは、「トレンド」の部分と「ランダム」な部分が絡まってごっちゃになった「汚い式」になってしまい手が付けられなくなることである。しかしここで「伊藤のレンマ」を使うことで、汚い式を、見事に「トレンド」の部分と「ランダム」の部分に分離することが可能なのである。


伊藤のレンマを使えば、様々な確率微分方程式で求める式を、「トレンド」の部分と「ランダム」の部分に分離できる。そのため、伊藤のレンマを使って、ランダム部分のみを抽出し、ランダム部分を相殺してゼロになるようなポートフォリオを作成すれば、それは無リスクの金融資産になる。そして、価格がどちらに動いても利益がでるような無リスクポートフォリオを作成することもできる。そして、先ほどの確率分布の幅が√tで広がっていく議論を使えば、利益の額の期待値は、時間が経つほど大きくなることも予測できる。利益の期待値が求まれば、それがそのポートフォリオの価格だと理解すればよいのである。このような発想によって様々な資産の価格付けが可能となった。このように優れた特徴をもったブラック―ショールズ理論および方程式はノーベル経済学賞につながったわけであるが、長沼の言葉を借りて極論を言ってしまえば、ブラック―ショールズ理論は、伊藤のレンマを金融の分野に応用したに過ぎないのだということになるのである。伊藤のレンマの真髄は、確率微分方程式において「2つの部分に分離する」ことだったのである。

アジアはいかにして現在のアジアになったのか

岩崎(2019)は、世界人口の約6割を抱え、広大な面積を占めるアジアについて、東アジア、東南アジア、南アジアのサブ地域に区分し、2300年ほどのアジア史を各国史ではなく一体のものと捉え、アジアの内部勢力(自律)と外部勢力(他律)の相克と共同、その結果としての変容として捉える歴史観を披露している。ここでいう外部勢力とは主にヨーロッパとアメリカである。岩崎によれば、アジアの3つのサブ地域は、中国とインドという強大な国家を中心に据えつつ、これまでの歴史過程で相互に影響を与え合いながらも、同時に、自律した地域として独自の歴史を展開してきた。


アジアの原型を形づくったアジア史の出発点では、アジアの3つのサブ地域に諸々の土着国家が登場し、自律を追究する傍ら、アジアの内部勢力と外部勢力による交流が始まったと岩崎はいう。アジアの原型の特徴は、稲作を中心にした農業基盤型、内陸型の土着国家の優位性、1つの民族からなる単一民族社会、東アジアは儒教仏教徒道教、東南アジアはヒンドゥー教と仏教、南アジアはヒンドゥー教が中心というものであった。


岩崎によれば、古代から中世にかけてのアジアは3つのサブ地域の力が外部勢力に勝り自律的活動を展開していたが、モンゴル帝国の出現を契機にしていくつかの国が運命共同体的に他律の道を歩み、近代ヨーロッパ勢力が到来すると、ほぼすべての国が他律的な歴史の道を航海することなった(唯一の例外は近代化を成し遂げた日本)。大まかな流れとしては、各地の土着国家の盛衰と13世紀のモンゴル帝国の誕生、欧米による植民地化、日本の占領統治の影響、第二次世界大戦後の独立と経済発展、アジア共同体の模索ということになる。


13世紀にモンゴル人がアジアを攻撃・征服して1つの政治・経済圏を創った後、交通手段の発達とともに、外部勢力は西から(ヨーロッパから)、東から(アメリカから)、世界で一番人口が多く資源も豊富なアジアに到来した。ヨーロッパとアメリカはそれぞれの時代に世界を変革した原動力であった。ヨーロッパ勢力は経済資源の獲得とキリスト教の普及を目的としてアジアに到来し、結果的にアジアに資本主義をもたらす契機を作った。アメリカはイデオロギーの普及(自由主義国を増やすこと)を目的としてアジアに影響力を行使し、アジアにアメリカ型社会文化をもたらすことにつながった。


つまり、モンゴル帝国の登場と支配によってモンゴル帝国後の後継土着国家の成立につながり、ヨーロッパ勢力が到来してアジアに植民地国家を創って統治・支配するようになると土着国家は実質的に終焉して、アジアが全面的に変容した。そして、第二次世界大戦後は主にアメリカの外部勢力が大きな影響を与えたが、他方ではアジアは自律を回復して、2000年代になると、アジアのことを自ら決める「アジア共同体」を模索するようになったのである。このような歴史の流れの中で、軍事的に一時的ながらアジアを支配して強い影響を与えたのがモンゴルと近代日本だったと岩崎はいう。モンゴル帝国は、アジアの土着国家体制を破壊してヨーロッパ勢力の植民地体制を生み出す契機となり、近代日本のアジア軍事進出はヨーロッパ勢力の植民地体制を一時的に停止して現代国家体制が誕生する契機となったのである。


このように、アジア史は、内部勢力と外部勢力がぶつかり合い(外部勢力のアジアへの侵入や到来)、内部勢力の政治自立や民族文化を維持するベクトル(自律)と、外部勢力の支配と変容を促すベクトル(他律)の相互作用(相克と共同)で動いてきたが、2つが衝突したとき、ほとんど外部勢力の力(とりわけヨーロッパの勢力)が勝ったので、他律がアジアの変容の原動力となった。ただし、必ずしも常に外部勢力に支配され規定される受け身の立場にあったわけではなく、外部勢力に対して自律の主張、あるいは、自国文化と外来文化との折衷が行われた。内部勢力もアジアに影響を与え変容を促した。例えば、インドで誕生した宗教(仏教とヒンドゥー教)が東南アジアや東アジアに伝播したこと、東南アジアの土着国家がインド文化の強い影響を受けたこと、中国が周辺国を冊封体制の下に置いたことなどである。


以上見てきたように、モンゴル帝国の出現やヨーロッパとアメリカという2つの外部勢力の影響を受けてアジアは大変容を遂げたが、アジアの原型から見ると、政治は世襲支配者が支配する土着国家から、外国人が支配する植民地国家を経て、普通の人々が統治する現代国家に、経済は、土着国家時代の稲作農業、植民地時代の一次産品産業を経て、独立国家時代の工業国への転換、社会は、単一民族型社会から多民族社会への転換が行われたのだと岩崎はまとめている。

妄想から始めよー目に見えない停滞感を打ち破るビジョン思考

佐宗(2019)は、ビジネスや企業経営における思考法の領域では、これまで、カイゼン思考、戦略思考、デザイン思考が存在していたという。しかし、PDCAサイクルで回していくカイゼン思考は、不確実性の高いVUCAやAIなどによる自動化の時代には弱く、戦いに勝つための論理を追究する戦略思考は、既存の枠組みでの戦いでいずれ人々は疲弊してしまい、プロトタイピングに代表されるデザイン思考は、他人モードとなり自分を見失しないがちになるという。そこで佐宗が提示するのが、最も人間らしく、「好き」や「関心」に基づいた「自分モード」を錨として考えるビジョン思考である。そして佐宗は、ビジョン思考は、妄想からスタートするという。ビジョン思考とは、妄想を手なずけ、圧倒的なインパクトを生み出そうとする思考で、妄想→知覚→組替→表現のサイクルを繰り返すものである。


世界のエリートと言われる人たちは、「本当に価値あるものは、妄想からしか生まれない」と考えていると佐宗は指摘する。実現可能性を度外視した妄想から始めるビジョン思考は、まだ目には見えない理想的状態を自発的に生み出し、そこと現状とのギャップから、思考の駆動力を得ていく方法である。「内発的な妄想=ビジョン」である。壮大な妄想(=ビジョン)は、内発的動機づけを高め、創造性を刺激し、あらゆる資源を動員して実現しようとする中で、思わぬ技術革新などの副産物も得られる。佐宗によれば、具体的に妄想を引き出す方法としては、まず、自分モードの時間(何もしな時間)をスケジュール予約する。妄想が生まれてくるための余白をデザインするわけである。また、妄想クエスチョンという方法もある。例えば、「子供時代の夢は何だったか」「青春時代、何/誰に憧れていたか」「もし3年間自由な時間ができたら何をしたいか」などを自問する。


妄想から始まるビジョン思考も、それを駆動させるためには知覚力も大切だと佐宗はいう。五感を最大限に活用して世界を知覚し、ぼんやりとした妄想の輪郭をはっきりさせ、未来の可能性に彩られたビジョンの設計図や世界観を作っていくのである。これを可能にする知覚力は、感知(ありのままに見る)、解釈(インプットを自分なりのフレームにまとめる)、意味づけ(まとめあげた考えに意味を与える)の3つのプロセスから成り立つ。例えば、言語脳をいったん遮断してありのままに見る(感知)、箇条書きではなく「絵」にして考える(解釈)、画像と言葉を往復することで意味をつくる(意味づけ)などの方法がある。


佐宗のモデルでは、妄想から始まった構想が解像度が高まってアイデアらしくなってくると、構想の独自性を徹底的に突き詰めていく組替のプロセスに移る。他人の目を気にせず主観的にアウトプットしただけの構想を、他人の目線で外から眺めなおし、自分らしい世界観に基づいた独自のコンセプトへと磨きかけていく。最初はつまらない妄想であっても、概念を壊して作り替える(組替=分解+再構成)ことで、妄想の切り口を変え、新規性や独創性が備わってくる。例えば、常識を疑い、常識を覆すために、「あたりまえ」を洗い出す。「あたりまえ」の違和感を探る。「あたりまえ」の逆を考えてみるというようなかたちで要素を抽出して分解していく方法が有効である。とりわけ、違和感のある常識をピックアップし、違和感に正直になり、「あまのじゃく」スイッチをオンにして常識を裏返す。そして、分解したものをアナロジーを活用して再構成していく。


ビジョン思考のサイクルを構成する最後のプロセスは、アイデアとして組み替えた妄想を、いったん具体的な作品として表現するプロセスである。ビジョンを簡単にプロトタイプにしたものを通して、外部からフィードバックを得たり、次なる妄想の種にしていくわけである。このプロセスでは、限られた時間の中で、まず具体的な試作品を作り、フィードバックをもらい、より完成度の高い試作品を作るといったように、「具体化→フィードバック→具体化→」の反復をスピーディに繰り返すことだと佐宗はいう。表現の力を高めるため、習慣化するなど表現の「動機づけ」をする、表現を「シンプル」にする、表現に「共感の仕掛け」をつくる、という方法が有効だという。聞き手に共感を生み出したり、影響を与えたりするプロトタイプをつくるためには「ストーリー(物語)」が有効であることを佐宗は指摘する。「英雄の旅」などのストーリーを活用して、人を動かす表現を心掛けるのがよい。


これまで紹介したきたように、妄想→知覚→組替→表現のサイクルで表現できるビジョン思考を通じて、本人の内側から出てきた妄想(ビジョン)を駆動力とすることで、不確実性の高い時代でも個人が長期的な取り組みを持続することができ、どこかで背中を押してくれる大波が現れ「期待を超えた爆発」にめぐりあえる可能性が高くなるだろうと佐宗はいうのである。