成功とは集団的現象である

私たちは、成功したいと願い、成功を目指して努力をするし、実力を身に着けようとする。しかし、知っておくべきことがある。バラバシ (2019)によれば、成功とは「個人的なものではなく集団的なものであり、あなたが属する社会の反応を必要とする」ということである。つまり、私たちが個人的な成功を望むのであれば、成功とは集団的現象であることを理解しておかなければならないのである。バラバシは、パフォーマンスと成功を違うものとして扱う。成功は、社会から受け取る報酬だから、社会があなたのパフォーマンスをどう捉えるかが決定的に大切だというわけである。


このような成功の定義もしくは大原則と、ネットワークの科学をベースとした客観的事実から、バラバシは、いくつかの科学的裏付けのある成功法則を導いている。まず、「パフォーマンスの定義や測定が明確な職業や業界においては、パフォーマンスが成功を促す」。プロ野球選手やプロ・ゴルファーがよい例である。これは納得できるだろう。しかし、「パフォーマンスが分かりにくい職業や業界においては、ネットワークのあり方が成功を促す」とバラバシは指摘する。例えば画家である。パフォーマンスの測定ができないあるいは曖昧な時は、例えば、社会におけるオピニオンリーダーとかキュレーターの意見に集団心理が影響を受け、それらに基づく評判などが社会に広がることで、成功を促すわけである。よって、本人がどのような社会的ネットワークにおいてどのようなポジションにいるかも成功には欠かせないということである。


また、成功が集団的なものであって、社会ネットワークの影響を受けるということは、いったん評判が高まれば、ネットワーク効果も相まって乗数的に広がっていくことも可能である。最近の新型コロナウイルスのケースを持ち出すまでもなく、社会ネットワークでは、物理的なものであろうと社会的なものであろうと何かが一気に伝染し、勢いがつくと簡単には止められないということがよくよくある。このことから、「パフォーマンスには上限があっても、成功には上限がない」という次の法則が導かれる。昨日まで一般人にすぎなかったある人物が一夜にして有名人になり、あちこちで引っ張りだこになることだってあり得るということである。これも、成功とは集団的現象であるという命題と整合的である。


そして、成功は成功を呼ぶという社会的効果と、パフォーマンスが社会から好意的に受け止められるか(役立つと思われるか)といった適応度が組み合わさると、爆発的な成功をもたらす可能性があることもバラバシは示唆している。つまり、「過去の成功×適応度=将来の成功」という法則である。これは、成功は集団的現象であるから、誰を支持すればよいかわからない大衆は過去の成功者に着目したり、オピニオンリーダーの意見に引っ張られたりするからである。つまり、一般大衆の偏見も、爆発的な成功に一躍買っている可能性があるわけである。そして、並外れた適応度(世間からみて質の良いもの)があれば、社会的影響をはねのけて社会からの支持が得られるとバラバシはいう。よって、この2つが組み合わさると鬼に金棒というわけである。


また、集団的心理や人間が持つバイアスなどを考慮すると、次の法則である、「チームの成功にはバランスと多様性が不可欠だが、功績を認められるのは1人だけ」ということも理解できる。チーム全体のパフォーマンスであっても、特定の人物に脚光が当たってしまうのである。そして、バラバシによる最後の法則には勇気づけられる。それは、「不屈の精神があれば、成功はいつでもやってくる」という法則である。年齢は成功には関係ない。大事なのは、Qファクターと呼ばれる、アイデアを形にする能力である。つまり、何歳になっても粘り強く、Qファクターを活用して次々とアイデアを形にしていく作業を続けるならば、その中のどれかがうまく評判を広めるネットワークの網にひっかかり、成功をものにすることができるということである。数打てば当たるではないけれども、成功の直接的原因である集団的反応にスイッチが入る確率を高めるために、たくさんアウトプットを出し続けるということが大切なのである。

生命は誕生するものではなく、死んだこともない

池田(2019)は、現代の生物学の知識を用いて、生命とは何かについての解説を行っている。それによると、子供が生まれる時などに一般的に使われる「新しい生命が誕生した」という表現は、生物学的には正しくない。何らかの物質が絡み合って生命が誕生するわけではないということだ。もし本当にそれが可能であるならば、原理的には生命は人工的に作りだすことができることになるが、それに成功したことは一度たりともない。また、個体としての1人1人の人間は死ぬが、いま生きている生命は、それが個別に誕生したのではなく、太古から死ぬことがなく脈々と受け継がれてきているものであることがわかる。火に例えてみると、火は一度消えてしまったら(死んだら)、二度と再点火しない。けれども、最初は小さな火種として出発したものが、いまでは地球全体に燃え広がってしまって、いくら部分的に消化しても(死ぬ個体が存在しても)、全体としては消すことができなくなってしまった(地球は生命であふれかえっている)というようなものである。いま燃えている火は、古代になんらかの偶然が重なって奇跡的に生じた小さな火種から今日まで脈々と受け継がれたものであって、一度も消えたことがないわけである。


上記のことをもう少し詳しく説明すると、生命の源はDNAであるかのような誤解が生じがちだが、DNAは設計図的な情報が入っている物質にすぎないので、生命そのものではない。別の言い方をすれば、生命に情報を提供するような役割を担っている物質にすぎない。そもそも、生物とは、内と外の境界を次々と変えながら自分自身が変わっていくシステムだと池田はいう。つまり、「物質の循環」を通して、自分を構成する物質を次々と変えながら、なおかつ全体としては同じという奇妙な空間なのである。私たち人間でいえば、10年前と現在とでは自分の身体を形成する物質がすべて変わってしまっている。しかし、10年前もいまも、私は私で同一である。このように、本当は変わり続けているのに同一性を保っているものを「オートポイエーシス」と呼ぶわけだが、池田は、生物とは究極には物質の配置であり、物質と物質のある特殊な配置がオートポイエイティックな系を作り出したのではないかという。一度出来上がったシステムは再帰システムにより循環し、壊されない限り続く。生物は約38憶年前にそのようにして誕生して以降、ずっとそのオートポイエイティックなシステムを空間から空間へ継承させてきたのである。


このように、遺伝に関してはDNAも重要だが、DNAが遺伝するのではなく、オートポイエイティックなシステムが遺伝されてきているのだと池田は指摘する。つまり、生きていること自体が継承されているということである。これは生命に関するもう1つの重要な事実を内包している。それは、例えば人間の場合、生命はつねに女性を通じてしか受け継がれないということである。男性は生命を受け継ぐことができず、あくまでDNAを提供することで情報を提供することしかできない。人間の細胞の中で死なない細胞の1つが生殖細胞であり、その生殖細胞が次の子供になり、大人になり、また生殖細胞ができて分裂し、そのうちの何個かが次の大人になり、、、と、生殖細胞の系列だけは細胞分裂を繰り返し、死ぬことはないと池田はいう。つまり、女性は子供を産むことで自分の生殖細胞の一部が生き延びていくことができるが、男性はDNAを提供することしかできないので、細胞レベルでは死んでしまう。つまり、男性として生まれた生命は、必ずそこが終着点となって途絶える運命にあるわけである。先ほどの火の例えでいえば、つぎからつぎへと火が燃え移っていくプロセスは、女性を通じてのみ可能であって、男性の場合は、受け継いだ火は必ずそこで消えてしまうというわけである。

私の内部で時間は流れ、その時間の中で私は存在する

私たち人間は、石器時代に完成したハードウェア(脳、認知機能)と、人類が生み出した言語や数学といった道具を組み合わせて世界を認識している。そのような人間が、絶対空間の中の「平らな地面」で暮らし、「絶対的な時間が過去から現在、未来へと均一に流れる」という認識をしていても、日常生活になんら支障をもたらさない。しかし、近代科学は早々と、「物理世界においては地面が平らなのは間違っており、実際は球体(地球)である」ことを明らかにし、現在の私たちはそれを当たり前のように受け入れている。そして、現代科学でも、物理世界では「絶対的な時間が過去から現在、未来へと均一に流れる」という私たちが直感的に抱きそうなイメージが間違っていることを示してしまった。ただ、こちらはまだ万人が受容するほどには浸透していない。


吉田(2020)によれば、現代科学が明らかにしたことは、まず、物理世界においては「宇宙全域に均一の時間が流れている」という素朴な考えが間違っているということである。例えば相対性理論では、同じ時刻を単一に決められず、単一でない「いま」が宇宙のあちこちに存在する。相対性理論における時間の遅れや浦島効果の例が示す通り、場所によって時間の尺度が異なるのだから、あらゆる場所に個別の時間が存在する。そして、時間は流れるものではなく、空間と同じような拡がりである。相対性理論では、時間は空間と一緒になって「時空」という物理的実在を構成している。時空は拡がりの概念なので、時間軸には過去・現在・未来のような区別がなく、時間の経過という概念もない。つまり、現代科学が明らかにしたのは、物理現象が過去から未来へと順番に決まっていくわけでもなく、新しいことが時間軸に沿ってダイナミックに生成されるわけでもないのである。


時間と空間を同じ拡がりであるといわれても、空間に拡がりがあるのは分かるが、時間に拡がりがあるというのは理解しずらいであろう。その理由は、人間の認識能力の限界にあることを吉田は指摘する。物理現象を「時空」をつかって理解する上では、本来ならば、時間と空間を同じ単位でそろえるのが望ましい。しかし、そうするとどうなるかというと、空間軸の1メートルに対応する時間軸の1単位は、300億分の1秒になってしまう。これはこの宇宙では唯一速度が絶対的に不変である光の速さが基準になっているからである。時間軸を1秒に設定しても、それに対応する空間軸は300憶メートルになってしまう。いずれにせよ、そのような単位を持つ時空は人間が無理なく認識できる範囲をとうに超えている。


上記のように、時空を直感的に理解するのは人間の認識能力ではかなり困難ではあるのだが、あえてその時空概念にもとづいて物理学的に正しい理解を示すならば、私は時間の経過とともに様々な体験をしながら存在し続けるのではなく(素朴な時間理解)、時空の中において、空間軸と時間軸における拡がりの中で存在しているにすぎない(現代科学的理解)。空間軸と時間軸に沿って伸びているという表現でもいいかもしれない。無理やり時間を空間のメタファーで表現するならば、例えば、私の空間上の長さが、縦横高さ平均して1メートルだとすれば、その私は、時間軸では、300憶メートル分の長さをもった存在だと理解できる。そしてそれはもちろん、私と独立して存在する絶対的な空間や時間の中にいるわけではなく、その空間と時間はその場所にしかない個別のものであり、もっといえば私自身の一部でもあるといってもよいだろう。


このように、現代科学の立場から物理世界の時間を理解するならば、時間とは私たちが素朴に抱いているイメージとは全く異なる物理的実在だということになる。では、時間が過去・現在・未来へと流れていくのは間違っていると断言してよいのだろうか。それに対し、吉田は異なる視点を提供する。それは、時間の流れというのは物理現象ではなく、人間の意識に由来するものなのだという理解である。つまり、私たちにとって、時間が流れるのは真実であるといってもよい。しかし、それは物理世界での話はなく、私たちの内的世界とか、私たちの意識の中においての話であるということである。先述のとおり、人間は物理的な実在を正確に認識できない代わりに、入力された情報の順序を入れ替えたり因果関係を捏造したりしながら、無意識的に、流れがあるかのように内容を再構成するのだと吉田は指摘するのである。


つまり吉田によれば、私たちは、さまざまな体験が時間の流れに沿って順に生起すると感じるが、そうした時間感覚自体は、脳が捏造したものである。それは人間が進化の過程で石器時代までに獲得した認識の方法なのだから仕方がない。石器時代には現在のような高度な科学的理解は生存するためにまったく必要がなかったのだから。よって、結論としては、時間は私の心の中で流れるのである。よって、私はいったいどのように存在しているのかと問われれば、私自身が時間の流れを作り出し、その時間の流れの中で存在しているのだといえるだろう。

無期限の品質保証書を有する数学の特殊性

現代科学の発展により、人間は、自分では認識できない微小の世界から巨視の世界まで理解することが可能になった。その原動力となったのが、間違いなく数学である。言い換えれば、数学という特殊な性格を持った学問が、人間がこの世界を認識する能力を格段に進歩させたのだといえるだろう。では、そんな数学とはいったいどんな学問なのか。


瀬山(2019)は、数学とは、記号を使って展開される「想像力の科学」だと指摘する。数学は、人間の想像力を解放してくれる面白い学問なのだという。ここでいう数学記号は、考えている事柄を明確に曖昧さなしに表現するために、数学者たちが長い歴史の中で考え出した世界共通言語である。さらに、数学には「証明」という方法が存在する。証明とはまさに数学の根幹にある知の原動力だと瀬山はいう。


証明とは、いくつかの前提をもとに、論理的に結論を導くことである。世界共通言語としての数学記号を用いているゆえ、その意味しているところに曖昧さがないうえに、その論理展開に一切間違いが含まれていない。それゆえに、瀬山の言葉を借りれば、証明は、数学が発行する無期限の品質保証書だといえる。現代数学では、証明を「仮定された命題(数学的に内容がはっきりしている事柄)から出発して、論理的な約束にしたがって命題をいろいろな形に変形して、定理と呼ばれる新しい命題を手に入れていく手続き」となると瀬山はいう。


このような証明という手段を持つ数学は、自然科学とは大きく異なる。自然科学では、正しいと信じられてきたことが時代と共に変化する。例えば、天動説から地動説、ニュートン力学から相対論のように。一方、数学においては、一度証明され、無期限の品質保証書を与えられたものは、永遠に書き換えられない。例えば、ユークリッド幾何学ピタゴラスの定理などは、数千年前たった現在でも、真理としての性格が揺らぐことはない。


なぜこのような違いがあるのかといえば、自然科学は、自然世界の事柄を対象とする、事実を理解するための学問だからであり、つねに理論と(観測)事実とが結びついていないといけないからである。既存の理論が、新たに発見された事実と齟齬を起こすのであれば、その理論はもっと優れた理論にとって代わられる運命にある。それに対して、数学は、事実と対比する必要はまったくなく、純粋に「想像」だけでも成り立つ学問だといえる。例えば、数学では、虚数のような想像上の数を作り出したり、非ユークリッド幾何学のように平行線の公理を使わずに、どんどん知識を進歩させることが可能である。解析などで用いる「無限」という概念自体が想像以外にあり得ないともいえる。だからこそ、想像の科学といえるのであろう。


さらに数学には、曖昧さのない記号と万人にとって正しいということを保証する証明という手段があるため、いったん証明されてしまえば、それを間違っていると誰も口出しできないという堅牢な特徴を持っている。柔軟かつ堅牢な知識構造を作り出していくのが数学である。数学は、現実にとらわれることなく、想像のみによって万人にとって正しい結論を導くことができる唯一の学問であるといってよい。これが、人間が生物学的に装備した認知機能の限界を想像力と論理によって突き破り、あたらしい物事の認識の仕方を提供してきたがゆえに、人間のもつ素朴な認知能力をはるかに超越した現象理解をも可能にするに至ったのだと思われるのである。そもそも、現代科学が相手にしている、人間が直接認識できない微小・巨視世界というのは、想像力と正確性(論理性、厳密性、精緻性)という武器なしには理解不可能なのである。

時間は本当に存在しないのか

人間は、自分の周りの世界に適応するために思考や言語を発達させ、それらを生活の道具として用いてきた。それらの最も基本的な概念には、物、事、時間、空間、自然数などが含まれ、これらの基本概念を用いて世界を理解しようとしてきたのである。これらの概念は、世界を理解するためにつくられたものだから、当然、存在することが当たり前であるものとして扱われてきた。石ころのような「物」や、私たちがいまここにいる「空間」や「時間」はそもそも人類が出現する以前から存在しているのが当たり前のことで、それを前提に、世界を理解する理論を作り上げようとしてきたのだ。しかし、現代科学は、このような基本概念をも否定するようになった。「物」も「空間」もその存在自体が怪しい。そして、ロヴェッリ(2019)は、現代物理学の結論として「時間は存在しない」と喝破する。


なぜそんなことになってしまったのか。それは、近代科学を成功させてきた人間が、自分たちが認識できる世界の範囲では飽き足らず、この世界の根源的な理解を求めて、宇宙のような巨視的世界や量子のような微小世界といったように、直接認識することができない世界にまで研究の範囲を拡大していったからである。人間の力では直接認識できない世界を対象としているのに、認識できる世界を理解するために用いてきた人間の認知能力や言語でほんとうに理解が可能なのかという問いが当然ながら出てくる。しかし、それを乗り越えようとしているのが現代科学なのだ。つまりこれは、まだ知らない世界を理解するための冒険というよりも、人間が世界を理解するための認識能力への挑戦といったほうがよいかもしれない。身の回りの世界を理解するために作られた思考ツールで、それをとっくに超えた宇宙や微小世界を理解することがどこまでできるのか。人間が備えている認知能力と思考ツールのみで、この世界の根源を本当に理解することができるのか。


その挑戦にいち早く成功してきたのが数学で、自然数や分数のような日常生活にもなじみのある数的概念をとっくに超え、マイナスや虚数のような想像上でしか存在できない数や無限を扱う微分方程式といった解析学などの思考ツールを発達させてきた。ユークリッド幾何学を否定したリーマン幾何学相対性理論に寄与したように、まずは数学において人間の認識能力の限界に挑戦するような前提の変更や拡張が起こり、それらの成果が自然科学に応用されることで、私たちの自然理解が格段に進展してきた。そうなってくると、宇宙や量子など人間が直接認識できない世界についても、数学の論理とかろうじて観測できる事実を用いて、世界を理解するための無矛盾な知識体系を構築できる。そのような過程ででてきた議論が、相対性理論でいうところの「絶対的な空間も時間も存在しない」というものであった。


さらに、量子力学の世界に入っていくと、そこでの結論は、空間や時間は存在するというよりは、作られるものであり、「物」さえも存在しないということになる。物が存在しないのなら何が存在するというのか、空間も時間も存在しないのであれば、何が宇宙を構成しているといえるのか。それに対して、ロヴェッリは、「根源的な世界は、出来事の相互作用で成り立っている」という。つまり、世界は「物(モノ)」ではなく「事(コト)」で成り立っている。空間も、時間も、物も、そこから立ち現れてくる。空間や時間や物が最初にあって出来事が生じるのではなく、その反対である。微小世界では、世界を理解するのに時間を方程式に含める必要がない。相互作用の非可換性が、順序や時間の芽となる。


ロヴェッリによる解説では、現代科学が発展した結果、私たちが常識的に持っている時間や空間の概念は完璧にまでに瓦解した。私たちが持っている通念、それは、「宇宙のあらゆる場所に今(現在)があって、過去は誰にとっても過ぎ去ったもの、未来は開かれていて定まっていないもの。現実は、過去から現在を経て未来に流れ、事柄は、過去から未来へと非対称にしか進展しない」このような世界の基本構造が瓦解してしまったのだ。


では、この世界とはどんな世界なのか。ロヴェッリによれば、現代科学で分かっていることは「宇宙全体に共通な「今」は存在せず、「今」は局所的に存在するのみである。世界の出来事を記述する基本方程式に過去と未来の違いはない。自分のまわりで経過する時間の速度は、自分がどこにいてどのような速さで動いているのかで変わってくる。時間が流れるリズムは、重力場によって決まる。時間と空間はゼリー状に伸び縮みする。だがそれらは世界の基本原理にはなく、量子的な世界の近似にすぎない。世界の基本原理には、ある物理量からほかの物理量へと変わる確率的な過程があるだけである」。つまり、現在分かっているもっとも根本的なレベルでは、私たちが経験する時間に似たものはほぼ無いといえる。世界を記述する方程式では、時間も空間もなく、変数が互いに対して発展する。その変数とは物ではなく、出来事である。


ただ、このようなことを言われても、私たちの頭では、にわかには理解できない。それもそのはず。そもそも私たちの認識能力は、日常生活をスムーズに送るための素朴なイメージを描くための思考ツールしか備えておらず、この世界の根源を理解するために作られたものではないのだから。しかし、それでも知りたい、理解したいという人間の欲望や執着心が、生物学的な認識能力は石器時代とほとんど変わらないにもかかわらず、現代数学、現代科学といった思考ツールを限界ギリギリまで発展させ、限界にぶち当たればそれをさらに突破することを繰り返すことで、人類をここまで発展させたのだといえるだろう。

人間ではなくアルゴリズムが支配する未来

近代から現代にかけて、人類は自らの想像力の産物でもある「神による支配」を覆し、人間の命と情動と欲望を神聖視する「人間至上主義革命」を引き起こしたといわれている。人間至上主義の一環として派生したのが、自由主義社会主義、進化論的人間至上主義である。しかし、ハラリ(2018)は、これらの人間至上主義も未来には終焉を迎え、データ至上主義に移行するのではないかという可能性を示唆する。しかもそれは、神による支配を覆すきっかけをつくった科学やテクノロジーのさらなる発展によってもたらされることを示唆するのである。そのキーワードが「アルゴリズム」である。


ハラリによれば、現代科学の発展による人間理解は、私たちには自由意志があるというような自由主義(人間至上主義の1つ)の信念を崩すだけでなく、個人主義の信念も崩しつつある。また、近年のテクノロジーの発展は、意識を持たない知能(人工知能)の優位性を証明しつつある。このような文脈で重要な概念がアルゴリズムなのである。アルゴリズムとは、計算をし、問題を解決し、決定に至るまでに利用できる、一連の秩序だったステップのことをいう。例えば、情動は生化学的なアルゴリズムで、すべての哺乳動物の生存と繁殖に不可欠なものとして捉えられる。アルゴリズムは、私たちの世界で間違いなく最も重要な概念だとハラリはいう。


意識を持たないアルゴリズムには手の届かない無類の能力を人間はいつまでも持ち続けるというのは希望的観測にすぎないことを現代科学が示しているとハラリはいう。実際、現在の生命科学では、生き物はアルゴリズムであり、ホモ・サピエンスを含め、あらゆる動物は膨大な歳月をかけた進化を通して自然選択によって形作られた有機的なアルゴリズムの集合にすぎないと考えるのだという。そして重要なことは、アルゴリズムの計算は計算機の材料には影響されないということだ。つまり、人間や動物のような有機アルゴリズムにできることは、非有機的なアルゴリズムでは再現できないとは言い切れない。計算が有効であるかぎり、アルゴリズムが炭素の形をとっていようとシリコンの形をとっていようと関係がないのではないかというわけである。


生き物=アルゴリズムであるといえるのであれば、生命=データ処理だということもできる。このような考えを支持するのがデータ至上主義であり、これが現代の科学界の主流をおおむね席巻しているとハラリはいう。データ至上主義では、森羅万象がデータの流れからできており、どんな現象もものの価値もデータ処理にどれだけ寄与するかで決まるとされているという。データ至上主義の観点に立てば、人類全体をも巨大なデータ処理システムとみなし、歴史全体を、このシステムの効率を高める過程と捉えることができるという。データ至上主義によれば、人間の知識や知恵は信頼できるものではない。人間はもはや膨大なデータの流れに対処することはできないため、人間の脳の処理能力よりもはるかに優れている電子工学的アルゴリズムなどに任せるべきだということになる。


データ至上主義のもとでは、人間は、神性を獲得するほどにこの宇宙の頂点に立つもっともすぐれた生き物であるとはいえないことになる。人間個人は、誰にもよくわからない巨大なシステムの中の1つのチップであり、デジタル機器やテクノロジーを生活を便利にするために使いこなしている人々、様々なデータをSNSやネット上に記録し蓄積しているような人々は、この世界のデータフローの一部になりたがっているとさえいえる。こう考えると、膨大なデータ処理によって人間よりも人間のことをよく理解することができる「アルゴリズム」こそが、人間の上に立つことになる。将来、認知的肉体的限界を持つがゆえに必ずしも正しい判断や行動ができない人間は、政治・経済・科学・技術などあらゆることを、人間よりも信頼性の高いアルゴリズムに任せるようになるかもしれない。頂点に君臨するアルゴリズムの指示や助言に従って動くのが人間の将来の姿なのかもしれないのである。

発想力を高める方法

奥山(2019)は、クリエイティビティを発揮し、発想力を高める方法として、「自分の手で、目の前の紙に「絵」を描くこと」をお勧めするという。手で絵を描くうちに、ぼんやり頭に浮かんでいるだけだったアイデアが、次第に輪郭を帯びて、明確になってくることがあるという。すなわち、手を使って絵を描いて試行錯誤していくと、自分のアイデアが整理されて、予想すらしていなかった「偶然性のあるひらめき」を高確率で呼び込むこともできるようになるのだと奥山はいうのである。


ここで重要なのは、クリエイティブとは独創的だとか創造的だとかいうよりも、自分の意識や思考を前提にしつつ、さらにそれを超えたところで、偶然起きたことをつかまえる能力だと奥山が考えているということである。良いアイデアを得るには、自分の頭で思いついている範囲の思考を超えていく必要があるのだが、そのためには、手を動かしていくことが必要なのである。自分の本来の能力を超えて、潜在的なクリエイティビティを、偶然性を通して引き出すための最適なツールが必要であり、その1つが、自分の手で絵を描くということなのである。


実際、偶然はいろんなところで起きている。しかし、往々にして人はそれに気づかない。気づくためには、日ごろから問題意識をもって物事を観察しておくことを通じて、偶然をキャッチアップする準備をしておく必要があると奥山はいう。用意や準備がなければ偶然という幸運も訪れない。よって、アイデア出しとして絵を1万枚描くとか、文章を一万字書くとかすることで、時間をかけて経験によるロジックを意識的にも無意識的にも積み重ねる。そしてこれらをいったん「忘れる」。忘れたように見えても、頭のどこかで転がっているから、何かを見たり、聞いたりしたときに、偶然のようにひょっこりとよみがえってくるというのである。


そして、チームで動く際のイメージ共有にも、絵の力が威力を発揮すると奥山は説く。絵の強さは言葉の壁を超える「世界の共通言語」であることだとさえいう。