人間は本当に自由意志を持っているのか

「自由」というのは、人間の本質とも関連し、人間の歴史でも重要な概念である。実際、これまでの人類の歴史は、人々が自由を勝ち取ってきた歴史であるとう見方もできよう。しかし、人間は本当に自由に物事を決めることができるのか、それとも結局はなにかに制御され、操作される存在にすぎないのかという問いについては明確な結論がでてきるとは言えないのではないだろうか。例えば、自然科学における極端な決定論をつきつめれば、私たちの行動はすべて動かしがたい自然法則によって支配されているということさえできる。すべてが自然法則よって支配されているならば「自分で何かを選びとる」という自由意志はないことになる。


下條(2008)は、認知神経科学の立場から、この問いに関して大胆なモデルを提示している。それは、人間は自由でもあり制御されてもいる、すなわち「自由」と「制御」が両立している、ただしそこには時間のすみわけがあるというのである。


まず、人間の行動が制御されていると考える根拠は何か。認知神経科学の立場では、人間の行動の基礎にあるのは神経系であり、その神経系は人間が意識的におこなう行動よりもずっと広く、深いレベルでの人間行動を制御していることを示す研究成果がある。さまざまな場面において、私たち人間の行動は、無意識あるいは前意識レベルの、さらにそれを突き詰めると、神経系のレベルの影響を受けているというわけである。そうすると、現代社会のコマーシャリズムや大衆誘導的な政治がそうであるように、私たちの神経系、たとえば情動をつかさどる機能に直接作用するような手段を講じることによって、私たちの行動をある意味制御できるということになる。私たちの行動の多くは無意識レベルの働きによって決定づけられているとすれば、自由に決定しているのではなく、むしろ制御されていると考えられる。


しかし、人間は別の認知メカニズムを持っているという。その1つが原因帰属という思考プロセスである。私たちは、特定の行動が実際は自分の意識していない範囲で行われていても、その行動を、自由意志によって行ったと確信するような認知的特徴を持っているというのである。つまり、自分の行動を「後付け」で説明しようとする心理メカニズムが存在し、そのメカニズムによって、自分の行動の多くが、自分の自由意思によってなされたものであると考えるというのである。そしてこのメカニズムは研究でも頻繁に確認されている。


つまり、私たち人間の行動は、予測可能な「プレディクティブ」な過程では実質的に制御されていながら、それを後付けで振り返る「ポストディクティブ」な過程において「自由」の感覚が広がることが多いにありえると下條は論じるのである。


この「自由」と「制御」が時間的棲み分けによって共存するようなメカニズムのもとでは、実質的に人々の行動を制御しておきながら、人々が自由を享受できていると感じるように仕向けることも可能であり、現代社会ではそれが、巧みに、さりげなく行われている可能性を下條は指摘している。例えば、個人の購買行動や嗜好の履歴を収集し、適宜、お勧め商品を提示するようなマーケティングモデルがそうである。本人にとってみれば、自分が好む商品を適宜すすめてくれることで快適さを得ることができるが、問題なのは、「自分が好む商品」というのが、本当に自分の意志で選んだものなのかということである。無意識的に個人の選択の幅を徐々に狭め、それを強化するようなフィードバック機構が働いていると解釈することも可能である。


たしかに「快適さ」は現代のキーワードであり、人々は生活に快適さを求めるようになっているが、この「快適さ」という概念の本質は、「何かを委ねること」ではないかと下條は言う。現代社会における人々は、自分で何もかも決める、選びとるのでなく、そういった煩雑さを他者に委ねてしまうこと、言い方を変えれば、自由を放棄することによって、快適さを得ているのだという解釈も可能なのであろう。